「浄土真宗の歴史」

2019年(令和元年)923() 午前11時 会場:弘宣寺 本堂

弘宣寺 若 八村弘昭(やつむら ひろあき)

 

 浄土真宗を作った親鸞は、1173年に日野有範の子として生まれました。521日とされています。日野家は藤原氏の下級公家の家系でした。親鸞は9才の時に天台宗のお坊さんになりました。青少年期の二十年間を比叡山で修行しましたが、その事実を伝えるものはとても少ないです。親鸞は29才の頃に道を求めて比叡山を下るべきかどうか考えていました。そして浄土宗を作った法然のところに行きました。法然の教えは南無阿弥陀仏によって救われることを説くものでした。親鸞は法然に100日間通い続けて教えを確認したうえで、自分の人生を任せるのにふさわしい教えであると確信し、法然の弟子になりました。やがて法然は親鸞に対して厚い信頼を寄せるようになり、法然の書いた「選択本願念仏集」を書き写すことを許しました。法然はむやみに見せなかったが、親鸞は弟子になって約4年で信頼されたのでした。

 

 法然の教えは毎年に信者が増えていって、京都でも有名な存在となって行きました。旧仏教教団は出家仏教に意義を認めない教えが世間に広まることを怖れて批判をして、朝廷に対して弾圧するように願い出ました。法然の教えは仏教と国家政治を破壊するものとして、法然たちは悪魔のようなことをしている存在だから、早く処罰してこのような教えが永久に生まれないようにと訴えました。1207年、朝廷は法然に対する弾圧を開始しました。この時に処罰を受けた者は、死刑4名、島流し6名であり、法然は土佐(高知県)、親鸞は越後(新潟県)に島流しされました。

 

 親鸞は二度の結婚をしたことになっています。最初の妻は九条兼実(くじょうかねざね)の娘で一人の子どもをもうけ、二度目の妻は恵信尼(えしんに)で三男三女が生まれています。1211年、親鸞39才の時に島流しが許されましたが、しばらく新潟県に留まり、やがて1214年までに妻子とともに関東へ旅立ちました。関東の信者は多くが農民たちでした。しかし、幕府と関係を持つ地方武士も信者になり、信者の中心的な存在として活動しました。親鸞は関東に約20年間住みましたが、常陸(茨城県)での生活が多かったようです。関東には親鸞の信者が数万人いたと考えられます。

 

 親鸞は60才の頃に関東を離れて、京都に帰りました。生活は、関東の信者が送ってくる懇志に頼っていました。京都での親鸞は、関東の信者に対して書状で教えを伝えたほか、京都に来た人には実際に会って教えを伝えました。しかし親鸞が関東を離れて20年がたつ頃には、関東の信者のなかには親鸞の教えをねじ曲げる者もあらわれました。間違った教えを正すために親鸞は息子の善鸞(ぜんらん)を関東に送りました。善鸞が関東に行って間もなく、信仰の動揺が表面化し、混乱の極みに達しました。親鸞の代理として関東に行った善鸞は、関東の信者の中心的な地位について信者をまとめようとしました。しかし関東には親鸞の教えを正しく受け継ぎ、信者の信頼を集めていた人物がいました。したがって善鸞が中心的な地位につくことはできませんでした。このようなところから善鸞は関東の信者の結束を切り崩して、自分の勢力を拡大するために、「親鸞の本当の気持ちは夜中に自分だけが受け継いだ」というウソを言いました。関東の信者は動揺して、善鸞について行く者がたくさん出て来ました。しかしこの方法も限界がありました。そこで善鸞は次の手段として、政治権力と結びついて教団の切り崩しをはかり、純粋な信者を「悪者」として鎌倉幕府へ訴えたのです。これにより幕府の取り締まりが頂点に達して、信者たちはよそに移り住まなければならない状態に追い込まれました。親鸞は、親鸞の教えに反して関東の信者を混乱させた善鸞と親子の縁を切り、その手紙を関東の信者に送りました。親鸞はその時、84才でした。親鸞は、厳しく政治権力に依存することを禁じました。

 

 12621128日、親鸞は90歳で亡くなりました。親鸞の墓は簡素なものだったので、この墓を管理している親鸞の娘の覚信尼(かくしんに)と関東の信者が協力して、覚信尼の住んでいる場所に移転しました。ここに六角の建物を建て、親鸞の墓はとっても立派なものとなりました。この墓は大谷(おおたに)という地名に建てられた墓(廟堂。びょうどう)なので「大谷廟堂」と呼ばれ、覚信尼が管理することになりました。廟堂を管理する役職を「留守職(るすしょく)」といいます。覚信尼は、大谷廟堂を管理する役割は親鸞の血統をひく覚信尼の子孫であるべきことを決めました。覚信尼は留守職の最終権限をあくまで信者側に与えることに努め、もし留守職就任者が信者の意思に背いて大谷廟堂に混乱を招くことがあった場合には、信者は直ちにその者を留守職から追放するように決めました。覚信尼は大谷廟堂の建立・留守職の設置という業績を残しましたが、大谷廟堂は本願寺の始まり、留守職は門主制の原型であって、真宗史上にしめる位置は大きいといわなければなりません。

 

 三代目の留守職には覚信尼の孫の覚如がつきました。覚如は墓だった大谷廟堂をお寺にしました。そして本願寺という名前をつけました。お寺にすることによって親鸞の信者をまとめることが狙いでした。しかし覚如による本願寺中央集権政策は必ずしも成功したとはいえませんでした。それは各地の信者がそれぞれに分立し一派を形成する傾向を強めて行ったからです。その筆頭として高田派があげられます。高田派は下野(しもつけ。栃木県)高田にできた信者です。そして越前(福井県)では、三門徒派と、山元派と、誠照寺派ができ、京都では佛光寺派がつくられました。佛光寺派は近畿はもちろん、その周辺に勢力を拡大して行き、南北朝時代には完全に本願寺教団を圧倒していました。そのほか南北朝時代には近江(滋賀県)木辺に木辺派がつくられました。

 

 三代目覚如から数えて七代目までの間は本願寺はとても貧しくて苦しかったです。関東・東海地方は高田派が、近畿地方は佛光寺派が、越前地方は三門徒派が活躍し、本願寺はこれらの地方教団によって圧迫を受け沈滞していました。この本願寺を一躍大教団に発展させたのが第八代の蓮如(れんにょ)でした。蓮如の教えは、農民たちにとっては魅力のあるものでした。当時の社会は室町幕府や荘園領主の支配力が低下し、それとともに村における農民組織が強化され、農民たちは領主に対して年貢を納めないという行動に出ていました。蓮如の教えは、信心を得ることのみによって人間として最高の人格が与えられるものでした。農民たちは蓮如の教えを受け入れることによって「われは信を得たり」という大義名分のもとに、自らの行動を正当化し領主に反抗して行きました。このように蓮如の教えは混沌とした社会のなかで成長をとげる農民を惹きつけて行きました。

 

 蓮如の教えが比叡山の足下の近江に広がると、この地域の農・漁民が結束を固くし始めると、比叡山は本願寺への攻撃を開始し、大谷の本願寺を破壊しました。大谷廟堂を建ててから129年にして、大谷の地を去ることになりました。蓮如は、1471年に越前の吉崎へ移りました。そうするとまたたく間に越前・北陸の農民が信者になりました。吉崎は急速に繁栄しましたが、加賀・越前地方の荘園領主や、神社、お寺などの反感を買う恐れがありました。なので蓮如は、荘園領主をはじめとする支配者に抵抗してはならないことを決めました。この後に蓮如は何回も信者の農民の反領主行動を抑えようとしました。しかし1474年、加賀の守護大名の内紛に乗じた信者の農民は一向一揆(いっこういっき)を起こしました。この当時は浄土真宗は「一向宗」と呼ばれていたので、一向宗の起こした一揆なので一向一揆といいます。このような状況のなかで蓮如は1475年に吉崎を離れ河内(大阪府)へ移転しました。そうして1478年には山城(京都府)山科に移り、ここに5年がかりで本願寺を建てました。さらに1496年には、摂津(大阪府西部と兵庫県南東部)に大坂御坊と呼ばれるお寺を建てました。

 

 蓮如は1499年、85歳で亡くなりました。蓮如が各地を移り住んだことで、浄土真宗の教えを広い範囲の人たちに行き渡らせることになりました。このような本願寺教団の動向の中で、他の派の本山の代表の中には自ら本願寺の傘下に加わって従来の勢力を維持しようとする者も現れました。その筆頭に挙げられるのは佛光寺派の代表、経豪です。佛光寺派は近畿地域に最大の勢力を持っていましたが、次第に蓮如との関係を深めて行きました。このため経豪は、本願寺教団を嫌っていた旧仏教教団や室町幕府から責められることになり、1482年に佛光寺派の代表をやめることになりました。これをきっかけに経豪は本願寺に入り、経豪について来た佛光寺派の半分以上の信者も本願寺に入りました。またこの頃、越前の出雲路派の代表や、木辺派の代表も本願寺に入り、それについて来た多くの信者も本願寺に入って、一層の発展をとげました。

 

 蓮如の次の代になると本願寺に入る信者がさらに多くなり、全国的な大教団になって行きました。本願寺の信者は多くが農民でしたが、この当時の農民は武器を持っていたので本願寺は戦国大名なみの戦闘力を持つことになりました。本願寺は戦国大名と特殊な関係を持つことはきわめて危険であるので、できるだけこれを避けようとしましたが、戦国社会のなかに在っては限界があり、ついに戦乱の渦中に巻きこまれました。このような時代性と本願寺の社会基盤のなかで一向一揆が戦われて行きました。

 

 加賀(石川県)で一向一揆が起こり、守護大名を倒しました。この後に約100年間にわたって加賀は本願寺の信者が支配しました。1563年、徳川家康の領土の三河(愛知県)で一向一揆が起こり、家康側に有利な条件で和議が成立し、このあと20年間、家康は三河で本願寺の信者になることを禁止しました。本願寺の社会的勢力は戦国大名に匹敵するものであり、天下統一をめざす織田信長は本願寺を倒さなければなりませんでした。この頃に本願寺があった大坂は瀬戸内交通の要所に当たり、信長が西へ勢力を拡大する上には必ず手に入れておかなければならない場所でした。1570年、本願寺と信長との戦いが始まりました。本願寺側には越前の朝倉氏、近江の浅井氏、中国の毛利氏、四国の三好氏が味方につきました。本願寺は大坂の石山という場所にあったので、この戦いを「石山合戦」と呼びます。信長は本願寺を倒すことに苦労したので、その原因が背後から本願寺を支援する反信長勢力にあることを悟り、近江の浅井・越前の朝倉およびこれらと結んでいる比叡山へと攻撃を変えました。また、伊勢(三重県)の長島の信者による長島一揆を3年かかって倒し、朝倉氏も滅ぼし、10万人の兵を率いて再び大坂本願寺を攻めました。本願寺は中国の毛利氏や全国の信者による兵や武器の応援を得て抵抗しました。1579年、本願寺の信者が支配していた加賀が信長に倒されて、大阪湾でも信長軍に毛利水軍が負けて、本願寺は孤立していきました。そして1580年、朝廷により信長に有利な和議を結び、事実上、本願寺は敗北しました。和睦の条件は、大坂本願寺を明け渡すことなど7ヵ条から成るものでした。このため当時の本願寺の門主の顕如(けんにょ)は出て行きましたが、長男の教如(きょうにょ)が和睦に反対して本願寺に残ったが1ヶ月で信長に降伏しました。親子の間に亀裂が入りました。これで約10年間にわたった石山合戦は完全に終わりました。石山合戦は約100年間に及んだ一向一揆の最後の戦いであり、この後は本願寺は信長・豊臣秀吉の統一政権に従って行きました。

 

 信長は比叡山・高野山・本願寺・日蓮宗など有力なお寺を攻撃破壊したが、それは仏教そのものを否定したのではなく、仏教教団が独自に持つ支配権を否定したものでした。秀吉は信長によって破壊されたお寺を新たに建て直し、自己の権力の傘下に組み込んで行きました。秀吉の農民政策は、とくに農民を基盤としている真宗教団に大きな影響を与えました。1591年、石山合戦に敗れて各地を移り住んでいた本願寺に、秀吉は京都に移ることを命令して六条堀川に土地を与えました。これが今の西本願寺です。1592年、本願寺の門主の顕如が死んで、長男の教如が門主になりました。しかし顕如の妻が、教如との仲が良くなかったので「三男の准如(じゅんにょ)を門主にするように」という顕如の手紙を秀吉に見せて頼みました。そして教如は退職させられました。教如は家康と仲良くなり、1602年に家康の許可を得て京都の烏丸七条に新しい本願寺を作りました。これが今の東本願寺です。本願寺は東西に分かれましたが、西本願寺は西日本の信者を握り、東本願寺は北陸・東海地方の信者を地盤として展開して行きました。

 

 江戸幕府は1613年に全国を対象としたキリスト教の禁止令を出しましたが、それとともに全国民を仏教のいずれかの宗に所属させる政策をとりました。これによってやがてお坊さんは自分のお寺に所属した者がキリシタンではないことを証明する役割を命ぜられ、庶民の戸籍をも取り扱うようになりました。この制度によって人々は社会生活において「キリスト教の信者ではない」という証明を必要としたので所属しているお寺へ絶対的に服従しました。この信者制度を「檀家制度」と呼びます。お寺と檀家の結びつきは上下関係による支配になりました。本末制度とは、教団内におけるお寺の間に上下の差別をつけて、その上下関係をはっきりして、本山を頂点とする組織をつくることをいいます。檀家制度と本末制度により、本山・末寺・信者の上下関係ができました。ちなみに上下関係が逆転することを「まるで本山と末寺が入れ替わったようだ」という意味で「本末転倒」といいます。

 

 浄土真宗の教団内では自分たちのことを浄土真宗と呼んでいましたが、世間では「一向宗・門徒衆・無碍光宗・本願寺宗」など各地方によって異なった名前で呼んでいたので、東西本願寺は江戸幕府に浄土真宗という名前を認めるように願い出ましたが浄土宗の強い反対でかなわなかったが、明治5年に政府より「真宗」という名前が認められました。明治時代になると政府は「神仏判然令」を出して神道を擁護しました。このため日本各地において仏教破壊活動である「廃仏毀釈」が起こりました。この後政府は神道による国民教化を実行に移し、明治3年に神道国教化政策を表明しました。江戸時代にできた本末制度は、明治時代になると解体を求める一般末寺の意見がたくさん出て来たので、完全に廃止されて末寺はすべて平等の地位となりました。

 

 明治時代にできたのが仏教婦人会です。明治40年に「全国仏教婦人会連合本部」ができました。明治35年に西本願寺の門主の鏡如(きょうにょ)は探検隊を作ってアジアの西域探検をしました。探検は13年間にわたって行われ、貴重な物をたくさん集め、世界的な注目を浴びました。軍国主義が進行するなかで政府は新興宗教や小教派を弾圧し、既成教団に対しては戦時体制への協力を要請しました。これに対して既成教団は国家の保護を期待し積極的に戦争協力の道を歩みました。これは真宗教団も例外ではありませんでした。

 

 敗戦によってわが国は天皇制国家から民主国家へと大がかりな脱皮をせまられました。西本願寺教団では、昭和22年に第一回中央門徒会を開催し、同25年には門徒議員の宗政参加を許すなど、従来の僧侶教団から同朋教団へ向かう第一歩が踏み出されました。

 

以下の本を参考にしました。

・「真宗史」(中央仏教学院。本願寺出版社。1200円)


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