「浄土真宗の救い」

2021年(令和3年)813() 午前11時 会場:弘宣寺 本堂

弘宣寺 住職 八村弘昭(やつむら ひろあき)

 

1、誰のための仏教か

 

 仏教では「一切皆苦」と言い、すべての生き物は苦にまみれていると教えます。その苦は、私たちの欲望や執着が原因となって生まれるとされます。欲望は次々と生み出され、限りがない。「もっと、もっと」「次も、次も」と決して満たされることがないから、苦しみが生まれると言います。では苦しみを無くすためにはどうすればいいか。苦しみの原因である欲望や執着を無くせば、結果として苦しみも無くなると言います。このようにお釈迦さまは教えました。個人の苦しみをどう救うのかを説いたのです。

 

 しかし、仏教が日本に入ってきたとき、事情が違いました。仏教は国家の安泰を願い、天皇や貴族を護る祈祷の宗教として扱われたのです。聖徳太子も、聖武天皇も、仏教を使って国を治めることを目的としたのです。この流れに決定的な変化をもたらすのが、鎌倉時代の仏教です。特に親鸞は、個人の救いを強調した人なのです。親鸞は「阿弥陀仏がすべての人を救う」と言いましたが、阿弥陀仏の前ではすべての人が平等です。貴族であれ、一般庶民であれ、ひとりひとりの人間の苦しみに対応し、私たちを平等に救ってくれます。親鸞は、仏教を個人の宗教というお釈迦さまの原点に戻したのです。

 

 

2、誰が救うのか

 

 親鸞は「阿弥陀仏が救う」と言いましたが、阿弥陀仏とはどんな存在なのか。「無量寿経(むりょうじゅきょう)」というお経によると、はるか昔、法蔵(ほうぞう)という名前の王がいました。あらゆる人々を救いたいと思い、王の座を捨てて、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の弟子になりました。そして四十八の願いを立てて、長い修行を成し遂げ、阿弥陀仏となって極楽浄土を作りました。この四十八の願いの中の第十八番目が「阿弥陀仏の願いを信じて念仏を称えれば、極楽浄土に往生させる」というもので、親鸞はこれを一番大切にしました。これが阿弥陀仏がすべての人を救うという根拠です。キリスト教は神が救いますが、浄土真宗では阿弥陀仏が救います。

 

 

3、どんな救いか

 

 救いというと目の前に阿弥陀仏が現れて魔法のようにすべての問題を解決してくれると思いますが、そうではありません。私の経験を話したいと思います。私はお坊さんですが、お経を唱える時は今でもものすごく緊張します。檀家さんの家の仏壇でお経を唱える時は「阿弥陀仏に助けてほしい」と思います。シーンとしてると緊張するのですが、その時にペットの犬が吠えたり、子どもが泣いたりすると、少し緊張が和らぎます。私はこれが「阿弥陀仏の救い」だと思います。緊張で苦しい私を少し楽にしてくれる。そのおかげで最後までお経を称えることができます。その他にも、お盆やお彼岸などはたくさんの檀家さんの家にお参りするので、正座をし過ぎて足が痺れてきます。弘宣寺の前住職は足を手術したので、お参りをする時はイスを用意してもらわなければできません。そのために私がお参りしてもイスを用意してくれている家が多いです。足が痺れている時はイスはものすごく助かります。これも私は阿弥陀仏の救いだと思います。人によっては「ただのラッキーだろう」と思うかもしれないけれど、そのラッキーが阿弥陀仏のおかげだと思うのです。

 

 考えてみれば、私は弘宣寺の住職になりましたが、住職としてやっていけるのも、前住職や坊守や檀家さんの協力があってこそのものです。私一人の力では住職としてやっていけません。このみんなの支えを阿弥陀仏の救いだとするならば、私は毎日、阿弥陀仏に助けられながら住職をしていることになります。そもそも、弘宣寺には約400件の檀家さんがいるので、私はお坊さんだけをして生活できます。これがもっと檀家さんが少ないならば、収入を得るために他でアルバイトをしなければなりません。檀家さんにはお寺の維持経営のために会費を払って頂いていますが、会費のお金が無ければ経営もできないし、古くなった建物を直すこともできません。弘宣寺が弘宣寺としてやっていけるのもたくさんの人の助けのおかげであり、この一つ一つが阿弥陀仏の救いだとするならば、弘宣寺は阿弥陀仏の助けでやっていけるお寺であります。

 

 人は、危険を感じた時に助けてもらうと「助けられた」と感謝しますが、危険を感じるより前に助けられても、そもそも危険なことがあったことさえわからないのだから、助けられたこともわかりません。だから感謝もできません。しかし、助けられていることには変わりありません。例えば、誰かに悪口を言われても、それを知っている人が「知らないふり」をして今までどおりに自分とつき合ってくれる。これも助けであり、救いです。自分の知らないところで、自分のことを助けてくれている。そういうこともあるのです。私が当たり前の毎日を過ごせるのも、当たり前が当たり前としてあるためにたくさんの人が助けてくれている。そのおかげです。

 

 自分の力でできない時は、人は絶望します。しかし、気づいていないだけで阿弥陀仏が助けているのだとしたら、絶望しなくても生きていけます。人生には辛いことも悲しいこともあります。しかしその苦しさの一つ一つに阿弥陀仏が救いを届けてくれているとしたら、なんとか乗り越えられるでしょう。だから私は、これからの人生でたいへんなことがあっても、絶望せずに希望を持って生きていこうと思います。目の前に阿弥陀仏が現れてくれなくても、阿弥陀仏の救いが毎日あるのだと思って元気にやっていこうと思います。

 

 

 

以下の本を参考にしました。

 

「面白いほどよくわかる浄土真宗」(菊村紀彦監修。田中治郎著。日本文芸社。1400円)



法話一覧へ

ホームへ