「唯識とは何か」

2020年(令和2年)922() 午前11時 会場:弘宣寺 本堂

弘宣寺 住職 八村弘昭(やつむら ひろあき)

 

唯識(ゆいしき)の「識」とは心のこと。なので唯識とは、あらゆる存在が「ただ(唯)、八種類の心(識)によって成り立っている」という仏教の考え方です。今から約1800年前にインドで生まれて、西遊記の三蔵法師がインドで学んで中国に伝え、中国で法相宗(ほっそうしゅう)という宗になり、日本に伝わって奈良県の興福寺が中心となり広めてきました。

 

 

 

1、八種類の識

 

心というものを、仏教では、眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識(びしき)・舌識(ぜっしき)・身識(しんしき)・意識の「六識」と言いました。眼識とは視覚のことで、ものの色や形を見ること。耳識とは聴覚のことで、さまざまな音を聞くこと。鼻識とは嗅覚のことで、香りや匂いを嗅ぎ分けること。舌識とは味覚のことで、苦いや甘いを感じること。身識とは触覚のことで、皮膚にふれたものを冷たいとか暖かいと感じることです。意識とは、知覚・感情・思考・意志などの心のはたらきです。過去を思い出したり、未来を予想するなどがそうです。意識以外が「今あるもの」だけしかわからないのに対して、意識は昔のことも理解できます。

 

しかし唯識仏教では、この六識だけが心のすべてではないと言いました。深層心理として、阿頼耶識(あらやしき)と末那識(まなしき)という二つの識を考えたのでした。私たちが今まで見たり、聞いたり、経験したことすべてを記憶している部分を阿頼耶識と呼びました。自分中心に物事を考える部分を末那識と呼びました。

 

この八種類の識が心のすべてだというのが、唯識の考え方です。

 

 

 

2、阿頼耶識

 

阿頼耶とはインドの言葉「アラヤー」の当て字で、意味は「蔵、倉庫」です。なので阿頼耶識とは、生まれてから今までの経験や考えや気持ちがすべて記憶されている深層心理です。そのため、私たちが物事を理解し、判断する時には一番最初に大きな影響を与えます。自分ではすっかり忘れていることでも、深層心理はしっかりおぼえているので、経験の深さというものは大切なものです。この阿頼耶識によって影響された私たちの行動や気持ちや判断が、また阿頼耶識に記憶されて次の行動に影響を与えます。そうやって阿頼耶識の記憶と行動が影響し合い続けて、私たちの個性というものが決まります。

 

そのように心の底にあってひそかに記憶された私たちの日常のさまざまな行為・行動の気分が、おのずからにじみでてくる。それが、私たちの心のメカニズムなのだ、というのが唯識の言い分です。

 

過去のあらゆる体験・経験の気分をとどめる阿頼耶識が、まず第一に物事を理解するために大きな影響を与えます。この、おのずとにじみでてくるものを、私たちは意識的に操作することができません。私たちは、ほかでもない自分自身の過去のすべてによって、まず大きく影響されたところのものを理解するしかないのです。

 

私たちの行為というものは、すめば終わりという簡単なもの、あるいは無責任なものではないというのが、唯識の言い分です。この世に生まれてから今までのすべての行為・行動が、少しも漏れることなく心の底に記憶され、そして、現時点の自分にぬきがたく影響をおよぼしています。

 

阿頼耶識は、つねにさまざまに変化しているものであり、決して形が変わらないものではありません。

 

行為や行動が阿頼耶識に記憶されるということは、言い換えれば、私たちの行うことは、そのすべてが心の底に記憶されて忘れられないということなのです。

 

ひそかに記憶された過去の経験の気分が、その後の「私」というものを作っていく大きな原因であります。昨日の行動、そして、今日の行いが、明日の自分というものを生みだしていきます。

 

物事を理解する時に最初に大きな影響を与えるのが阿頼耶識ですから、自分のいままでの行為行動・体験経験が、私たちがものごとを理解する場合、最初にものをいうわけです。たとえば、よく「昔とった杵柄」といいますが、それと今はじめて手にする杵柄とでは、同じ杵柄でも、違って捉えられるでしょう。阿頼耶識とは、言い換えれば、過去を背負って現在を生きることですから、経験や体験の意味は重大なのです。

 

 

 

3、末那識

 

末那とは、インドのサンスクリット語のマナスの当て字で、「恒(つね)にはっきりと思う」という意味で、阿頼耶識を変わることの無い自分自身だと恒にはっきりと思う心ということです。

 

昔のインドでは、人間の中に変わることの無いものがあると信じて、それを「我(が)」と呼びました。しかし仏教を作ったお釈迦さまは、この世のものはすべてが移り変わっていくもので、一つの物事があるのは一つの原因があるからで、その原因が変われば結果も変わるから、すべてのものには我が無いと言いました。末那識は、我という変わらないものが無いのに、阿頼耶識を変わらないものと思いこもうとする深層心理です。

 

この末那識が自分自身に対して激しくとらわれ、ものごとの理解に大きな影響を与えます。

 

末那識は、眠っている時の意識が活動を停止している時も、絶え間なく自分にのみかぎりなく愛着をいだく心です。

 

末那識は、つねに、その目を阿頼耶識という自分そのものだけに向けて、それにとらわれ続ける心です。そのほかは、いっさい眼中にありません。末那識は、したがって、自己執着心といっていいと思います。

 

末那識の特徴を整理してみると、一つめは、末那識という心は、私たちが直接確認することができない深層心理であること。二つめは、末那識の働きには、休みが無く、常に活動するものであること。そして、三つめは、その活動の内容は、なにごとも自分中心で、平等の考えがないことです。

 

「どこまでも自分の都合のいいように」という末那識の自己中心性は、私たちが見・聞きし、そして、あれこれ考えることに大きく影響していきます。物事を理解する時には、末那識によって、自分の都合のいいように意味づけされるものだということです。

 

私たちは、阿頼耶識や末那識という深層心理の影響を大きく受けたものを理解しているわけです。特に末那識によってものごとは、すべて自分の方向に大きくねじまげられて理解されます。決して「ありのままの物事」では無いことを、充分にわきまえておくことが必要です。

 

自己中心的な言葉や行動を反省する「私」のなかに、なお、ぬくぬくとして自己愛に徹する「私」がいるということです。

 

末那識のはたらきは、奥深くたいへん微妙なもので、直接にこれを知ることができないものだということです。末那識のはたらきを説明するならば、実際は、言葉にもならない、いわゆるドロドロとした心なのです。

 

 

 

4、まとめ

 

自分自身の日常生活そのものは、阿頼耶識のなかに記憶されたものによって生まれてくるので、わが生活の責任は、あくまでも自分の内にあるということです。私たちは、うまく事が運んでいる時は、その原因を自分の内に求めたがるのですが、思うようにならない時は、その責任をなんとかして外部に求めようとします。しかし、そのようなごまかしなど一切できないというのが、阿頼耶識の記憶なのです。

 

やはり、過去は、動かし得ないものなのです。そうであれば、私たちは、どうでも、その過去というものを受けとめるより他ありません。

 

そこで、明日を生きていこうとする「私」が、人生の中ですべきことは、自分の言葉や行動に対して、他者の評価をもいただきながら、自ら反省し、そうして、それらにもとづいて新たな行動を起こしていく。そうしたくり返しによって前進していくのが、私たちの日常生活であろうと思います。

 

私たちが、善の方向へとささやかながらに力強く一歩を踏み出すか、あるいは心の乱れを大きくしてしまうかは、たとえ外部からのはたらきかけがあったにしろ、まったく自らの意識活動によって決まることなのです。このことは、いかなるときも、決して忘れてはならないことであろうと思います。

 

仏教的な生活というものは、次の二つにまとめることができます。一つめは、なんといっても、仏の教えにもとづいて、自分を見つめること・自分の過去をふり返ることです。さまざまな経典のなかで語られる仏の言葉によって、自らの行動をふり返り、自分を見つめる。そのとき、はじめて、仏教的な反省というものがみられるわけです。そして、二つめは、そうした反省にもとづきながら、同時に、今この時点から、わが生活をどのように営むべきかを探すことであろうと思います。

 

自分の愚かさというものを本当に見つめた時、かえって、この身が、仏に等しい心のやすらぎを実現できる身であることが知られるのであります。

 

そうした仏となるべき性質を、現実に開発していくことに主眼をおくのが、唯識仏教の立場であるのです。

 

自分自身をふくむあらゆるものを変わらないのでは無く、絶えず変化し動き続けるものとして理解していく習慣を身につけることが大切です。

 

私たちは、自分の理解がどうも「事実」あるいは「真実なるもの」とそうとう異なっているらしいとの気づきを大切にし、そこから自分を見つめることを深めていきたいと思うのです。そうした地道な作業を続けていくならば、あるがままに物事を見れるようになると思います。

 

私たちは一人ひとり、たがいに異なる独特の理解の世界に暮らしているわけです。私たちはこの事実が、以外にわかっていません。日常の人間関係が絶えずギクシャクするのはこのためではないかと思われます。

 

唯識仏教が明らかにしたように、人は皆違うのですから、なにごとも、その違うというところから出発したいものだと思います。そこではむろん、さまざまに違う意見や感覚を調整しなければならず、手間ヒマがかかります。しかし、それを否定的に考えるのではなく、ある種の豊かさと受け止める。そのとき、私たちは、ほんとうの意味で心豊かな世界の住人になれるのではないかと思います。

 

私たち一人ひとりを取りまく世界は、一見同じようにみえても、私たちは皆違う世界を抱えて、こんにちただいまを生きているわけです。言い換えれば、私たちは皆、本来的に個性的な存在です。唯識仏教の基礎を学んで、その知識に基づきながら、自分自身はもとより、目の前にいる彼や彼女の個性的な心の世界を改めて思いやり、その個性的な世界を互いに関係づけたいではないかと思います。

 

違いの上に成り立っているのが、他ならぬ私たちの日常生活でありましょうし、また、一旦おこなった自分の見方というものにとらわれがちな私たちであります。そして、そういったことが、豊かであるべき人間関係をさまざまに妨げる大きな原因にもなっているわけであります。

 

誰も他人が見ていなくても、自分の阿頼耶識は見て記憶して忘れない。そしてそのことが毎日の生活に大きな影響を与える。他人の目ばかりを気にする生活では無くて、自分の阿頼耶識を気にする毎日が大切ではないかと思います。また、末那識によって深層心理の段階で自分に都合良く物事をねじ曲げてしまう自分。そのことをいつも思いながら、「自分の理解は本当に正しいのか」といつも振り返ることが唯識仏教を学んだ意味があると思います。

 

 

 

以下の本を参考にしました。

 

・「唯識入門」。多川俊映。春秋社。2000円。

・「唯識の思想」。横山紘一。講談社学術文庫。1110円。


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