「中国の仏教」
2018年(平成30年)9月24日(月) 午前11時 会場:弘宣寺 本堂
弘宣寺 若 八村弘昭(やつむら ひろあき)
中国仏教をより深く理解するためには、中国史、中国思想史(中国哲学史)、中国文学史、中国文化史などを学ぶ必要があります。
中国仏教を歴史的・思想的に正しく理解するためには、インドの仏教についての基本的知識と、中国の歴史や思想・文化についての大まかな知識が必要です。中国では仏教が伝わる前から、高度の文明が栄え、インドにまさるとも劣らない多彩な古典哲学(儒家・道家の思想)がありました。インドから来た仏教は、それら中国の伝統思想と出会い、争い、一つになりました。
仏教がインドから伝わったとされるのは紀元前2世紀頃。ヒマラヤ山脈によって分けられた中国とインドを結ぶルートは、インドから中央アジアを通って中国に着く道です。これをシルクロード(絹の道)と呼びました。この道を通って、仏教が伝わりました。
翻訳について
中国は、漢字・漢語が通用するこの地域こそ、文明・文化の中心だとする「中華」意識に支えられていました。インドの仏教の本を自らの文字にすべて翻訳して理解しました。
中国仏教の歴史は翻訳の歴史とも言えます。中国での仏典翻訳の特徴は、訳された期間がきわめて長期にわたり、しかも訳された分量が膨大であることです。その期間はほぼ1000年続いて、訳された仏典の総量は、今残っているものだけで約1700部に達します。頁数で言えば3万頁以上になります。そして中国では訳されたものが原典以上に尊重され神聖視されています。つまり中国の仏教者たちは、仏教を学ぶ時に、インド原典について直接学習するということをほとんどしなかったのです。
その翻訳した僧侶の中で有名な二人が「鳩摩羅什(くまらじゅう)」と玄奘(げんじょう)です。鳩摩羅什は、偉大な翻訳者で東アジアや日本にも大きな影響を与えました。浄土真宗で使っている「阿弥陀経(402年)」や、天台宗や日蓮宗で使っている「法華経(妙法蓮華経)(406年)」を翻訳しました。玄奘は、西遊記の三蔵法師のモデルで、インドで仏教を学んで、645年にたくさんのお経の本を中国に持ち帰りました。日本では大化の改新の年です。そしてたくさんのお経を翻訳しました。「般若心経(はんにゃしんぎょう)」は玄奘が翻訳したものです。玄奘の翻訳は、原典に忠実で正確なものとされています。
儒教と道教
中国仏教を理解するには、中国固有の民俗宗教である道教を切り離して考えることはできません。それに加えて儒教も切り離すことはできません。
異質の外来文化や思想を受け入れるためには、受け入れる側にその外来思想と似たものが存在していなければなりません。まったくそれを受け入れる心の状態なくして外からの思想が入れるはずがありません。中国において仏教を受け入れられたのは、中国の固有思想としての道教が存在していたからです。仏教の経典のなかで説かれたことがらを中国の古典に書かれたことがらになぞらえてあてはめ、理解ができるようにしました。そのために中国仏教は、インド仏教とは異なったものになりました。
儒教とは孔子の教えを信じる教学であり、個人救済を目指す宗教というよりは社会集団における倫理としての側面が強く、学問研究的な面からは儒学、教育的な面からは儒教と呼ばれます。思想の中心は基本的な人間関係を示す三綱(さんこう)(父子・夫婦・君臣)と、道徳としての五常(仁・義・礼・知・信)です。儒学者の朱熹(しゅき)の思想は「朱子学」と呼ばれ、近隣諸国および日本においても強い影響力をもちました。
道教とは老子を教祖とする漢民族の宗教であり、現世利益を追求して、不老不死の生命を得ることを主目的とし、神仙思想や無為自然を中心とする道家思想です。道教の起源は、教主・張角を中心に黄巾の乱を起こした太平道や張陵が開創した五斗米道(後の天師道)とされ、祈祷や呪符による病気治療などで民衆に支持されました。
中国ではいつの時代でも儒教と道教と仏教が教義的にも教団的にも相互に干渉、あるいは影響し合ってきました。
宗派
「宗派」という考え方はインド仏教に存在しなかったもので、特定の経論あるいは実践を頂点において、全仏教をその下部に組織・体系化する、という理論は、宗派成立にとって不可欠の条件でした。三論宗、法相宗、律宗、密教等は、それぞれ独自の理論をもつとはいえ、インド仏教と比較的親しい関係を持ち、インドの教義・学説を手本とする傾向が強かった。しかし天台宗、華厳宗、三階教、浄土教、禅宗等は、インド仏教にはない、全く新しい要素が各宗派の基本的性格になっていて、中国人の仏教としてどのような新機軸が打ち出せるか、それが真剣に模索されていました。
1、天台宗
智顗(ちぎ)という僧侶が天台山に住んで、そこで教えを伝えたので「天台宗」と言います。
智顗は、「お釈迦さまの一番言いたかったことは、真の教えは一つだけであり,それによってすべての人が成仏できる」と書いてある法華経を一番重要な経典に位置づけました。日本から来た最澄(さいちょう)が学んで、806年に比叡山で日本天台宗を開きました。
2、禅宗
戒律・意識を一定の対象に集中させることで体験される宗教的精神状態・真理を見通す心のはたらき、の三つすべてを仏道修行における不可欠の要素と考えるインドの仏教とは異なって、精神をある対象に集中させ宗教的な精神状態に入る内に仏道修行のすべてが具わるとする中国独特の禅の思想、「禅宗」(中国禅)が作られました。禅宗は、唐に続く宋代以降の中国仏教界の主流となっただけでなく、朝鮮と日本を含む東アジアの仏教文化に多大なる影響を与えました。
悟りの内容は言語を絶しているため、文字(言葉)では表すことができない。その真髄は師から弟子への心の通い合いで伝えられると教えます。他の宗派が経典を拠り所とするのに対して、禅では経典に依らず、師弟の心の触れ合いの中で奥義は伝達されるものであるとします。
この禅宗の中に、曹洞宗と臨済宗ができて、日本から道元が中国に行き学んで日本に曹洞宗を開き、栄西が日本に臨済宗を開きました。
インド仏教の戒律では、修行に専念するため、僧侶は労働することを禁じられ、食べ物をもらう乞食によって生活することを基本とします。これに対して、中国の禅宗では、自給自足を禅寺の生活の基本とし、これに必要不可欠な僧侶の労働もそのまま「仏作仏行(ぶっさぶつぎょう)」として認められ大切にされました。
3、法相宗(ほっそうしゅう)
意識の一番下にある「阿頼耶識(あらやしき)」には、あらゆる経験を種としてしまっています。私たちが心に思い描く姿は阿頼耶識の働きによってしまっている種が現れただけです。そして、そこで得た経験を再び阿頼耶識に植えつけます。阿頼耶識は私たちの未来の可能性を全てしまっているという教えです。
4、律宗(りっしゅう)
戒律とは仏道修行の根本の1つであり、悟りを求めて生きる道の第1歩となるものです。この戒律の「戒」と「律」は、本来、別の意味を持つ言葉です。「戒」とは、本性や性格、習慣などを意味するサンスクリット語の(Sira)の翻訳した言葉であり、「律」とは「内外の悪を打破すること」を意味するサンスクリット語の(Vinaya)を訳した言葉です。すなわち、自発的に良い習慣を作る戒と他律的に諸々の過ちを制する律によって、仏教徒としての生活行為を規定するものが戒律なのです。
その戒律こそ仏教の命であり、これなくしては大乗仏教の奥深い教えも味わい得ないというのが律宗の基本的な立場です。
最後に
日本では、仏教が伝わって以来、漢訳経典を用い、また漢語(中国語)で書かれた論書を通じて仏教を学んできました。
日本の仏教教団の起源は中国仏教にあることから、現在も中国語のお経を用いて仏教を学び、また日本の宗派を作った僧侶の研究を通じて中国仏教研究を重ねてきた。そのような意味では、日本仏教の歴史がそのまま中国仏教研究の歴史といっても言い過ぎではないでしょう。
しかし昭和12年、支那仏教史学会が設立されて以降、その研究は大きく転換されました。これは中国仏教史を教理・美術・文学・法制・経済などあらゆる角度から研究し、総合的に仏教をとらえようとするものです。それまでの研究はあくまでも日本仏教の宗派を作った僧侶の研究の一環であったが、中国において変容・発達した一宗教として中国仏教をとらえようとするものでありました。
現地に残る活きた資料を用いることにより、それまでの研究からはみえなかった、中国仏教の実態がより明らかとなっていったのです。
ちなみに、近代に入ってからの中国仏教史跡は、破壊、そして建築によって大きな変容を遂げてしまった。破壊の代表的な例は文化大革命です。近衛兵たちは千数百年の歴史を有する史跡を跡形もなく破壊し尽くした。また建築によっても多くの史跡が破壊されています。
今も残っている物を大切に学びながら、中国仏教の歴史を知っていきたいものです。
以下の本を参考にしました。
・「お坊さんも学ぶ仏教学の基礎 2 中国・日本編」(大正大学仏教学科編。大正大学出版会。1500円)
・「中国仏教入門」(岡部和雄、田中良昭。大蔵出版。8000円)
・「仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解」(植木雅俊。中公新書。800円)
・「中国仏教の批判的研究」(伊藤隆寿。大蔵出版)
・「新 中国仏教史」(蒲田茂雄。大東出版社。2500円)
・「まんが 大乗仏教 中国編」(塚本啓祥、瓜生中、芝城太郎。佼成出版社。1600円)