「僧侶のルールに学ぶ仏教」

2024年(令和6年)320() 午前11時 会場:弘宣寺 本堂

弘宣寺 住職 八村弘昭(やつむら ひろあき)

 

 昔のインドでは、仏教の僧侶が四人以上集まった組織を「サンガ」と呼びました。サンガには規則があり、僧侶たちはその規則に従って生活していました。その規則のことを「律(りつ)」と呼びます。日本という国家を運営するためには法律が必要なように、仏教のサンガを運営するには律という規則が必要になるのです。サンガで暮らす僧侶たちは、いついかなる場合も、律の規則に従って行動しなければなりません。そもそも最初にサンガを作る時から、「サンガを作るため」の律の規則というものがあって、それに従った手続きが必要となります。律が無ければ、サンガを作ることさえできません。サンガを作るためには、まず四人以上の同姓の僧侶が一カ所に集まっていなければなりません。男四人以上または女四人以上の僧侶がいてはじめて、新たなサンガを生み出すことができるということです。彼らはまず、決められた方法で「サンガの領域」というものを設定します。「この領域の内側をサンガとします」という取り決めです。その広さは数十メートル四方から数百メートル四方。たとえば大きな石とか目立つ木などを指定して、それらを線で結んだ範囲をサンガの領域とします。その領域のことを「界」(シーマ―)といいます。そして界を設定するこの手続きのことを「結界(けっかい)」といいます。もしそこにすでに建物が建っているなら、「この建物の敷地を界にします」と言えば手っ取り早いです。それが今で言う、お寺の境内というものです。結界によって、そのサンガの場所というものがはっきり決まります。「この範囲の内側がサンガであり、そこから外はサンガでは無い」という判断ができるようになります。そしてその界の中で暮らす僧侶は、そのサンガのメンバーということになります。このことからわかるように、一つのサンガというものは、せいぜい数百メートル四方の領域からなる小さな集団であって、メンバーはいつも顔を合わせながら暮らしています。仏教という宗教は、このように比較的小規模な独立集団としてのサンガが各地に散在している、その集合体として成り立っているのです。同じ界の中で暮らす僧侶たちは、一つのサンガのメンバーということになるから、共同生活を送らねばなりません。自分だけが勝手な行動をとることは決して許されません。それが仏教の僧侶に定められた鉄則です。そしてその際の共同生活のための規則集が律です。したがって、サンガに属するすべてのメンバーは、律の規則に基づいて、一体となって集団行動を取らねばなりません。たとえばどういう決まりがあるかというと、「半月に一度、満月の日と新月の日は、全員がサンガ内の一カ所に集合して反省会を開かねばならない」とか、「サンガの中でなにか決め事がある場合は、サンガの全員が集合して、全員一致を原則として決議しなければならない」とか、「悪いことをした僧侶は、サンガの全員の決議によって罰を与えられねばならない」といった具合です。物事は常にサンガを単位として行われます。僧侶が個人的に好き勝手することは許されません。この鉄則を破って利己的に行動した場合は、律の決まりに従って罰則が与えられます。だからこそ仏教は「組織宗教」なのです。

 

 「なになにしなければならない」というスタイルの行動マニュアルとは別に、「なになにしてはならない」という禁止事項も律の中には数多く含まれています。そこにはたとえば、「物を盗んではならない」とか「人を殺してはならない」といった規則が延々、二百ヵ条以上入っています(女性サンガの場合は三百以上)。その各々の罪の重さに応じて、与えられる罰も決まっていて、たとえば僧侶が物を盗んだり人を殺した場合は、その罰は仏教世界からの永久追放です。僧侶というものは、こうやってガチガチに決められた規則で生活を定式化しながら、毎日毎日自己鍛錬の修行を続けていく。サンガの生活はなにを置いても規則優先なのです。

 

 あるサンガに属している僧侶が、そこを離れて別のサンガに移動することは少しも構いません。サンガからサンガへ移動している最中は、集団を離れて一人旅ということになりますが、それは特例として認められています。原則としてはサンガに属して暮らすことが推奨されるのですが、特別な理由がある場合には、単独行動も許されます。ただしその場合も、律によって決められた「単独行動時の規定」というものに従わねばなりません。仏教の僧侶というものは、とにかく規則に縛られます。サンガは全く厳格な法治社会なのです。

 

 ここで非常に基本的な点に立ち戻ってみましょう。なぜサンガなどという組織が必要なのか。なぜこんなガチガチの規則に縛られながら集団生活を送らねばならないのか。その答えは修行生活の効率化です。集団で暮らすことになにか奥深い宗教的な意味があるわけではありません。一人で暮らすよりも皆で集まって協力し合いながら生活した方が、修行がスムーズに進む、それがサンガを作った唯一の理由なのです。これはおそらくお釈迦さま自身のアイデアであると思われます。お釈迦さまは、たった一人で何年も試行錯誤を繰り返した末ようやく悟りを開きましたが、自分の弟子たちに、その同じ苦労の道を歩ませようとは思いませんでした。弟子たちには、「共同生活の中で教え合い、助け合いながら修行せよ」と言ったのです。集団で暮らすと、どういった点が効率的なのか。まず一番の理由は、先生から弟子へと正しく迅速に教えが伝わる、つまり教育の環境が抜群に良くなるという点です。仏教は「自分で修行の道を歩む宗教」であり、その歩み方を教えてくれたのがお釈迦さまです。したがって、そのお釈迦さまの教えを十分に学び、吸収していかないと出家して修行者になった意味がない。修行の大前提は「先輩から学ぶ」ということなのです。そのためサンガの内部では非常に緻密な教育制度が構築されており、新入りの若年者でもお釈迦さまの教えを体得できるようになっています。そのような教育制度を機能させるためには、どうしてもサンガという集団生活が必要なのです。二番目の理由は相互扶助のため。修行というのは一生続く息の長い活動です。一年、二年やってすぐに完成なとどいうものではありません。目的は悟りですが、実際のところは悟りそのものよりも、悟りを目指して努力するその日々を、死ぬまで継続するところに意味があるとも言えます。したがって、人は修行しているうちに年を取り、身体も弱ってくる。もし一人ひとりが独立して生活しているとすると、身体の弱った者はそれっきりで修行を打ち切らざるを得なくなります。それどころか、生きていくことさえできません。そんな時、誰が扶養してくれるのか。誰もいなければ野垂れ死にです。これを防ぐため、皆が集まって生活し、その中で健康なメンバーが弱ったメンバーを養うという相互扶助システムが導入されました。僧侶が年をとったり病気になったりして自由がきかなくなった場合は、まわりの者が皆で助けて食事の世話や病気の看病をする。そういう保障制度が定着していることで、誰もが安心して出家することができます。それはみな、仏教がサンガという共同体によって運営されていることの利点です。さらには雑務の省力化というメリットもあります。いくら修行者だからといって、掃除も洗濯もせずに動物のような姿で暮らすわけにはいきません。ある程度は生活を端正に保っておく必要があります。そのための雑務を、一人暮らしならばすべて自分一人でこなさねばなりませんが、集団で暮らしていると、役割分担や当番制によって効率的に済ますことができます。それはすなわち、その分の余った労力を本来の目的である修行にまわすことができるということを意味します。これもまた、サンガを形成することの重要な利点のひとつとなります。

 

 念のためにサンガの全体像を簡単なイメージとして語ると次のようになります。広いインドの各地に、百坪とか二百坪、あるいは千坪、二千坪といった広さの界を持つサンガがあちこちに散在している。その一つひとつのサンガには数十人、数百人といった数の僧侶が住んでいて、律に沿った規則正しい修行生活を送っています。サンガはすべて男女別々で、ひとつのサンガに男と女が混合で暮らすことは絶対にありません(ただし交流は許されています)。サンガから別のサンガへ僧侶が移動することは全く自由だから、サンガ内の人員は常に変化しています。そこにずっと住み続ける僧侶もいれば、旅から旅へ常に移動し続ける僧侶もいます。こういう、ある程度の自由度を持ちながら、ゆるやかな組織体としてサンガは運営されていました。その、インド全域に広がる無数のサンガの全体を上から俯瞰したものが、「インドの仏教世界」ということになるのです。

 

 ではなぜ、サンガには律という規則が必要なのでしょうか。お釈迦さまは弟子たちに「毎日、修行をしなさい。仕事をしてはならない。食べ物は、世間の人たちの余った物をもらいなさい」と言いました。そのためには、世間の人から「仏教の僧侶は立派な人だ。この人たちにならば余った食べ物をあげてもよい」と思ってもらうことです。そのために立派な人間として行動しなければなりません。しかし何十人、何百人という僧侶が集まって暮らすサンガの中で、全員がそんなすばらしい姿でいることは不可能です。それに、入ったばかりの新米の僧侶は、僧侶らしく振る舞えと言われても勝手がわかりません。放っておいたら必ず世間の顰蹙(ひんしゅく)をかうような行儀の悪いことをしでかします。そうなったら働かないので自給自足のできない仏教のサンガは、食べ物がもらえないので立ち行かなくなります。百人の僧侶が暮らす大きなサンガの中に、たった一人行儀が悪い者が混じっているだけでも、壊滅的なダメージを受けます。世間の人から見れば、たった一人の行儀の悪い僧侶を見ただけでも、「僧侶とは全員こんな人たちなんだ」と思ってしまう可能性があるからです。こういったことを防ぐためにも、サンガには最低限、世間から非難されることのない行儀作法だけは身につくよう、なんらかの行動マニュアルが必要です。それを新米の頃から徹底的に教育して守らせる。守らない僧侶は、サンガにダメージを与える危険人物だから、サンガから罰を与える。重い罪ならば仏教界から永久追放。そうやって、定められたマニュアルを行動のための最高指針として、完璧な法治主義に基づいてサンガを運営する。そうやってはじめて、仕事をしない自給自足のできない集団が、世間の中で尊敬され、潰されること無く存続していけます。その行動マニュアルこそが、律なのです。

 

 律の中で、これを破ったら仏教世界を永久追放される決まりが男性は四つ(女性は八つ)あります。一つめは「僧侶はどのような形であっても性行為を行ってはならない」。この決まりがあるから、僧侶は結婚できません。なぜ性行為が禁止かというと、インドでは「本物の修行者は性行為をしないものだ」と思われていたからです。なのでサンガの中には子どもは存在しません。僧侶になれる最低年齢が十五歳とされていたからです。二つめは「他人の物を盗んではならない。それが国家の法律によって厳しく罰せられるくらい価値の高いものであった場合には永久追放」。安物を盗んだならば、謝るだけで許されました。今で言うと、警察に逮捕されて裁判にかけられるような重大な窃盗をしたら永久追放になります。三つめは「人を故意に殺した者は永久追放。自分で直接に殺しても、他の人を使って殺させても、あるいは『死ねば幸せになれるよ』などとウソを言って死ぬことを勧め、その結果として死なせても、すべて永久追放」。しかし過って死なせてしまった場合は、軽い罪か無罪です。動物や虫なども故意に殺すと軽い罪になります。どんな場合でもこの決まりが当てはまるので、僧侶が戦争に行って戦って敵を殺すことも許されません。人の命を奪う行為に係わることは、絶対に許されません。四つめは「自分で自覚も無いのに、『私は悟った』、『悟りに近づいている』といったようなことを人に語り、後になってから『実はあれはウソでした』と自白した者は永久追放」。いかにも仏教らしい決まりです。では自白しなかったらどうなのか。ウソをつき通したらどうなるのか。罪にしようがありません。悟りというのはあくまで自覚の問題であって、なにか客観的な基準で計測できるものではありません。ウソをつき通したら誰も否定できません。ではなぜこんな決まりができたのか。世間の人は、悟った僧侶に食べ物をたくさん与えたいと思います。だから「私は悟った」と言えば、食べ物がたくさん集まります。しかしそれがウソだったと後からわかったら、世間の人はカンカンに怒ります。そうなるとサンガは今後、食べ物をわけてもらえなくなる可能性があります。なのでこの決まりができました。ちなみに、律の軽い罪の例を挙げれば「ちゃんと正しく下着を着けなさい」、「ちゃんと正しく上着を着けなさい」、「笑い声をあげながら世間の人のところに行ってはならない」などがあります。

 

 律の中には「こうしなければならない」という義務もあります。その一つめが、出家の方法です。僧侶は性行為をしてはならないので子どもが持てないので、サンガを維持するためには外から十五歳以上の人を連れて来て僧侶にしなければなりません。なので出家について定めた決まりは、とても重要なものです。具体的には、出家を希望する人が僧侶として不都合な点が無いかどうかをチェックします。そして、そのサンガのメンバー全員がその人を僧侶として受け入れることを確認します。これでそのサンガの僧侶になれます。誰か特定の人の判断で決まるのでは無く、サンガ全員の判断で僧侶になれるかどうかが決まります。二つめが、毎月の満月と新月の日に(つまり月に二回)、そのサンガの正式メンバー全員が一カ所に集まり、律の禁止事項を一つひとつ確認し合い、それに違反していないか自己反省する儀式です。半月に一度チェックするというのだから、律を守るということがどれほど重要視されていたかよくわかります。その他には、僧侶がサンガからサンガへと移動するのはまったくの自由です。ただし、雨が多い夏の三ヶ月間だけは、一カ所に腰を落ち着けて定住しなければなりません。雨の中を無理して歩くと、足下の水たまりの中の虫を踏み殺してしまう危険があるからです。そして、サンガの決定機関は、全員参加の会議です。全員が平等に権利を持っています。その他に、土地や建物といった不動産類はサンガの共有財であって個人所有を禁止することなどがあります。

 

 仏教と出会った人が出家するまでには、こんな感じの流れがあります。人生の問題に悩んだ人が解決策を求め、当時のインドにはたくさんの宗教があったので話を聞いてまわります。仏教の僧侶から話を聞いて感動したので詳しい話を聞きたいと尋ねると「今の生活を続けながら、日々正しい生き方を心がけて暮らす在家信者の暮らし。俗世間の生活を一切捨てて僧侶となり、専門の修行に明け暮れる出家者の道。この二つがあります」と言われました。「出家をしたいです」と言ったら、「年齢が二十歳にならないと正式な僧侶にはなれません。それまでは見習いとなります。そのためにはまず身元引受人の僧侶を一人決めておかねばなりません。サンガには独自の生活方法がありますから、それを教えてくれる人が必要だからです。その人のことを和尚と呼びます。和尚が決まったら髪とヒゲをそり、黄色い布(袈裟)を身にまとい、和尚の前で『私をあなたの見習いにしてください』と声に出して唱えます。相手の和尚がそれを承認した段階で、出家したことになります。サンガの中で和尚のそばで毎日生活します。日々の行動だけで無く、お経や修行方法のノウハウも細かく指導してくれます。そして二十歳になったら、十人以上の先輩僧侶が一回所に集まって受戒儀式を開きます。僧侶になるための要件をすべて満たしているかどうか審査を受けます。それをクリアーして、みんなが承認してくれれば、正式な僧侶になれます。がんばってください」と言われました。出家するまでは、こんな流れになります。

 

以下の本を参考にしました。

・「『律』に学ぶ生き方の智慧」(佐々木閑。新潮選書。1100円)                                                            





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