「親鸞の考え」

2022年(令和4年)321() 午前11時 会場:弘宣寺 本堂

弘宣寺 住職 八村弘昭(やつむら ひろあき)

 

 浄土真宗を作った親鸞は、「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」という本に自分の考えを書きました。この本は、浄土真宗の教えを書いたもので、教・行・信・証・真仏土・化身土の6巻あります。13世紀前半にできました。正式には「顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)」と言います。浄土真宗の大本になる本です。

 

 教行信証の中で親鸞は、「阿弥陀仏がすべての生きるものを救ってくれる」と書いています。もともとお釈迦さまの作った仏教は、苦しみを無くした状態、いわゆる「悟りを開く」ために、お釈迦さまの教えに基づいて自分で修行するものでした。しかしお釈迦さまが死んでしばらくたつと、お釈迦さまのようになりたいけれどなれないことが仏教者の苦しみになりました。そして、「自分自身だけ救って、他人を救わなくて良いのか」という意見も出て来ました。その結果、仏教教団は「自分のためだけに修行するグループ」と「自分も他人も救うグループ」に別れました。自分だけ救うグループは東南アジアに伝わり、他人も救うグループは中国や日本に伝わりました。この他人も救うグループが考えたのが、阿弥陀仏という仏です。もともとはインドの言葉で「アミターユス(無限の寿命を持つ者)」や「アミターバ(無限の光を持つ者)」と呼ばれていたのが、中国に伝わった時に中国にはカタカナが無いので当て字で阿弥陀という漢字になりました。この阿弥陀仏の救いを詳しく説明したのが「無量寿経」、「観無量寿経」、「阿弥陀経」の3つの経典で、浄土三部経と呼ばれて、親鸞も大切にし、浄土真宗の大本の経典になっています。この無量寿経の中で「はるか昔、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏の弟子に法蔵(ほうぞう)という菩薩がいて、あらゆる生き物を救おうとして、四十八の願いをたてて、とてつもなく長い間に修行し、ついに四十八の願いをかなえて仏になった」と書いてあります。親鸞が、阿弥陀仏がすべての生き物を救うと書くのは、これが根拠です。

 

 この阿弥陀仏の救いというのは、四十八の願いに基づいているのですが、この第18番目の願いが「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」というものです。わたしの国というのは、西にある浄土のことで、極楽とも言います。法蔵菩薩は、浄土(極楽)に生まれたいと願ったすべての生き物が生まれなければ仏にはならないと言っています。すなわち、法蔵菩薩はすでに阿弥陀仏になっているので、浄土に生まれない人はいないということです。親鸞は、9才でお坊さんになって京都の比叡山で修行し、29才までの20年間必死にがんばりましたが、苦しみを無くすことはできませんでした。その時に、法然(ほうねん。浄土宗を作った人)というお坊さんから阿弥陀仏の救いを教えられ、心から救われました。そして親鸞は比叡山での修行をやめて、法然の弟子になりました。

 

 親鸞は教行信証の最初に「わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の願いは、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光は、欲望の闇を破ってくださる智慧の輝きである」と書いています。親鸞にとって阿弥陀仏の「すべての生き物を救いたい」という願いは自分にとっては推し量ることのできないくらいすばらしいものであり、苦しみに満ちたこの現実世界を大きな船に乗って進むようなものであり、阿弥陀仏の光は欲望にまみれた自分の闇を破るような偉大な智慧なんだと思いました。

 

 また「阿弥陀仏が慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗(そし)るものを救おうとお思いになったのである」と書いています。阿弥陀仏の第18番目の願いは「ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」と言っているのに、なぜ救われるのか。五逆とは仏教での五種類の重い罪のことで、「父を殺す」、「母を殺す」、「悟った人を殺す」、「仏の身体を傷つけて出血させる」、「教団の和を破壊し分裂させる」のことです。謗るとは悪く言うことで、仏の教えを悪く言って攻撃してくることです。五逆の罪を犯したり、仏教を謗るものは、さすがの阿弥陀仏でも救わないというのが常識でした。しかし親鸞は、このような人たちも救ってくれると思ったのです。

 

 また「浄土の教えは悩み苦しむものにも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも往きやすい近道なのである」と書いています。阿弥陀仏によって浄土(極楽)に生まれる教えは、悩み苦しむものにとってすることがやさしい真実の教えで、愚かなものにも進むことが簡単な近道だと親鸞は言っています。親鸞は自分ことを、悩みや苦しみの絶えない愚かなものだと思っていました。だから自分の力で仏教の修行をしても、悟りを開いて苦しみを無くすことはできないと思っていました。そんな自分に、阿弥陀仏が救ってくれるという教えは、やさしく、誰でも救ってもらえる真実の教えなのだと思ったのです。では親鸞の阿弥陀仏の救いに対する具体的な考えはどうだったのか。教行信証に「阿弥陀仏より二種類の特徴がめぐらしさしむけられるのである。一つは、わたしたちが浄土に往生し成仏するということがさしむけられるのであり、二つには、さらに迷いの世界に還(かえ)ってすべての生き物を救うということがさしむけられる」と書いています。阿弥陀仏の救いによって私たちは浄土に成仏することができ、成仏した後はこの迷いの世界に還って来て他の生き物を救うということです。そして「浄土に往生し成仏することをさしむけられる中には、真実の教と行と信と証がある。その真実の教を顕(あらわ)せば、『無量寿経』である」と書いています。真実の教えと、行いと、信じる心と、証があると言ってます。その真実の教えが「無量寿経」だと親鸞は言います。そして「『無量寿経』の大まかな意味は、阿弥陀仏はすぐれた誓いを起こされて、広くすべての人々のために扉を開け、愚かな悩み苦しむ人たちを哀れんで、お釈迦さまがこの世に生まれ、仏の教えを説いて、人々を救い、まことの利益(りやく)を恵みたいとお思いになったものである。そこで、阿弥陀仏の願いを説くことをこの経のかなめとし、仏の名前をこの経の本質とするのである」と書いています。阿弥陀仏がすべての生き物を救いたいと思ったのでお釈迦さまがこの世に生まれ、そして教えを説いて人々を救ったというのが無量寿経の内容です。お釈迦さまがこの世に生まれたことこそが阿弥陀仏の救いなんだと言っています。

 

 また「悩み苦しむものの道は、どのように努めても、結局のところ、悟りに至ることはできない。いつまでも迷いの世界をさまようから、これを悩み苦しむものの道というのである」と書いています。悩み苦しむものはどれだけ努力をしても悟りを開くことはできないと親鸞は言っています。親鸞自身が自分を悩み苦しむものと思っていたので、自分の力では絶対に悟りを開くことはできないと確信していました。親鸞が比叡山にいた時に学んでいた仏教は、「今は悟りを開けなくても、努力すれば必ず将来に悟りを開ける」というものでした。しかし親鸞は20年修行をしても、悟りを開けると感じることはありませんでした。自分の力で無理、というのが親鸞の考えの大きな特徴です。

 

また「『南無』という言葉は帰命(きみょう)ということである。『帰』の字は至るということである。『命』の字は、阿弥陀仏のはたらきという意味であり、阿弥陀仏がわたしを招き引くという意味であり、阿弥陀仏がわたしを使うという意味であり、阿弥陀仏がわたしに教え知らせるという意味であり、阿弥陀仏のお計らいという意味であり、阿弥陀仏がわたしを召してくださるという意味である。このようなわけで、『帰命』とは、わたしを招き、よび続けておられる阿弥陀仏の願いの仰せである」と書いています。「南無阿弥陀仏」の「南無」と、正信偈の「帰命無量寿如来」の「帰命」は同じ意味で、阿弥陀仏と無量寿如来は共に阿弥陀仏のことなので、どちらも「阿弥陀仏にお任せします」という意味です。この「お任せする」というのが、わたしが自分の力でお任せすると思うのでは無くて、阿弥陀仏の方からよんでくださる阿弥陀仏の力なのだと親鸞は考えます。自分で阿弥陀仏の救いを調べて自分の力で阿弥陀仏を信じるのでは無くて、阿弥陀仏の力によって阿弥陀仏の救いを知り、阿弥陀仏の力によって阿弥陀仏を信じる心を生まれさせて頂くということです。このように、親鸞は「わたしの目線」から考える「わたしが主役」では無くて、阿弥陀仏の目線から考える「阿弥陀仏が主役」という気持ちでした。

 

 また「阿弥陀仏の願いの念仏は、悩み苦しむものや聖者が自ら励む自力の行ではない。阿弥陀仏のはたらきかけによるものである。聖者も、重い罪の悪人も軽い罪の悪人も、みな同じく、念仏して成仏すべきである」と書いています。阿弥陀仏の名前を唱える「南無阿弥陀仏」という念仏は、自分の力で唱えているようだけれど、自分の力でするのでは無い。阿弥陀仏の力によって唱えさせて頂き、阿弥陀仏の力によって浄土に成仏させてもらうと言っています。聖なる人も、悪人も、南無阿弥陀仏と唱えればみな同じく浄土に成仏すると親鸞は言っています。

 

 また「仏はおさめ取って決してお捨てにならない。だからこの仏を阿弥陀仏と申し上げるのである。これを他力という」と書いています。すべての生き物をおさめ取って決して捨てない。この阿弥陀仏の力を「他力」と親鸞は言いました。

 

 また「他力の信心を得ることは、阿弥陀仏が願いを選び取られた慈悲の心からおこるのである。その真実の信心を広く明らかにすることは、お釈迦さまが生き物を哀れむ心からおこされたすぐれたお導きによって説き明かされたのである」と書いています。他力を信じることは、自分でするのでは無く、阿弥陀仏から与えられたもので、阿弥陀仏が生き物をいつくしんで楽を与え、憐れみいたんで苦を抜こうと思った心からおこされたものである。その真実の信心はお釈迦さまによって説き明かされたものであると親鸞は言っています。

 

 また「ところで、常に迷いの海に沈んでいる悩み苦しむもの、迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続ける生き物は、この上もないさとりを開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、阿弥陀仏が生き物のために加えられるすぐれた力によるものであり、阿弥陀仏の広く大きなすぐれた智慧の力によるものだからである。たまたま、清らかな信心を得たなら、この信心は存在のありのままのすがたにかなったものであり、またいつわりを離れている。そこで、きわめて深く重い罪悪をそなえた生き物も、大きな喜びの心を得て、仏がたはこのものをいとおしみ、お護りくださるのである」と書いています。悟りを開くのが難しいのでは無く、悟りを開くために阿弥陀仏の願いを信じることが難しい。なぜなら阿弥陀仏のすぐれた力、すぐれた智慧によって初めて信じる気持ちが起こるのであって、自分の力で信じるのでは無い。信じる心が阿弥陀仏によって起こったら、どんなに悪い部分のあるものでも大きな喜びを得て、仏がたはこのものを護ってくださると親鸞は言ってます。

 

 また「浄土に往生する行いも信じる心も、すべて阿弥陀仏の清らかな願いの心より与えてくださったものである。阿弥陀仏より与えられた行いと信じる心が往生の原因であって、それ以外に原因があるのではない」と書いています。南無阿弥陀仏と唱えることも、阿弥陀仏を信じる心も、すべて阿弥陀仏が与えてくださったものである。この念仏と信じる心だけが極楽浄土に成仏する原因であり、それ以外に原因が無いと親鸞は言ってます。

 

 

 

以下の本を参考にしました。

 

・「顕浄土真実教行証文類(上)」(原文 現代語訳。本願寺出版社。1500円)

・「顕浄土真実教行証文類(下)」(原文 現代語訳。本願寺出版社。1500円)

・「浄土真宗辞典」(浄土真宗本願寺派総合研究所編。本願寺出版社。3500円)


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