「親鸞」
2024年(令和6年)8月13日(火) 午前11時 会場:弘宣寺 本堂
弘宣寺 住職 八村弘昭(やつむら ひろあき)
浄土真宗を作った親鸞は、平安時代の1173年に日野有範(ひの ありのり)の子として生まれました。日野氏は、大きな力をもった藤原氏の子孫です。ただ分家・傍流にあたり、有範はその日野家の分家の一つ、下級貴族でした。親鸞が生まれた頃は、平家が勢いを増し、藤原氏が衰えていく時でした。有範は出家して僧侶になり、親鸞は伯父の日野範綱(ひの のりつな)に預けられて育ちました。範綱は、源頼朝が弟の義経を京都から追い払った時に側近の12名が義経に味方したため一緒に京都を終われましたが、その12名の一人でした。その後に許された範綱は、出家して僧侶になりました。その10年ほど前、平清盛が死んだ1181年に親鸞は9才で出家して比叡山の僧侶になりました。
親鸞は、9年の見習い期間の後、「常僧(じょうそう)」と呼ばれる地位に就きました。常僧とは、エリートとして高位に昇る「学生(がくしょう)」とは違い、ひたすら修行に励む立場で僧侶としての地位は低かったです。学生になるには有力貴族の出身であるなど実家の身分が大事で、下級貴族の出身である親鸞は元から出世の道は断たれていました。修行に励んだ親鸞でしたが、欲望は消えることは無く、大いに悩みました。
1201年、29才になった親鸞は「このまま比叡山で修行しても、悟りは開けない」と思い、比叡山を去りました。聖徳太子が建てた京都の六角堂に行き、修行しました。95日目の夜明け、夢の中で親鸞は観音菩薩から「あなたが女性を欲しがるならば、私が女性になってあなたと交わろう。そして死んだ時は極楽往生できるように導こう」と言われました。六角堂を出た親鸞は、比叡山での修行仲間と出会い、浄土宗を作った法然を勧められました。法然は「南無阿弥陀仏を唱えれば、誰でも救われる」と教え、男性も女性も、身分の高い人も低い人も、たくさんの人が集まっていました。法然は「この世での行いは、念仏を基本として考えよ。出家して念仏を唱えられないならば、在家のままで唱えよ」と説きました。つまり独身生活の不満で念仏が唱えられないならば、結婚して身を落ち着けて唱えよと説いていました。この考えに目の覚める思いをした親鸞は、それから100日間、法然の元に通った末、弟子の一人に加わりました。
親鸞の生涯に最も大きな影響を与えたのは、法然です。法然は親鸞とは違い、岡山県の豪族、つまり武士の出身でした。だが幼い頃に父が武士との争いで命を落とし、法然は出家して僧侶になりました。13才で比叡山に登り修行しました。そこで中国の僧侶の善導(ぜんどう)の書いた本を読み、念仏を知りました。念仏とは、難しく厳しい修行では無く、誰にでもできる易しい修行。よって自分のような欲深い人間でも浄土往生がかなえられると確信しました。1186年、各地で念仏の教えを伝える法然は、他の僧侶たちと問答しました。質問に法然は慌てず明確に答えて、念仏とは何かと説明しました。問答は丸一日続きましたが、集まった多くの人がその言葉に感心し、三日三晩念仏を唱え続けました。この問答で法然は一躍、名を知られました。1201年、法然の元に親鸞が訪れ、100日間通いいろんな質問をしました。しかし法然の答えはただひとつ。「常に念仏を唱えるだけでよろしい。それによって善人悪人も区別なく平等に救われるのだ」とだけ言いました。この時期、関白の地位を追われた九条兼実(くじょう かねざね)は長男が若くして亡くなったことに心を痛めて、法然の念仏の教えを深く信じました。
法然の弟子になった親鸞は、頭角を現し入門から5年後の1205年、法然の書いた「選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)」という本を書き写すことを許されました。これは法然の弟子の中でも限られた者しか許されないことでした。法然の教えの「阿弥陀仏を信じれば救われる」は、裏を返せば「他の神仏を信じても救われない」と同じ意味で、他宗派の怒りを買うことになりました。1204年には比叡山より「念仏をもって別に宗派を立ててはならない」、「念仏は神に背いている」、「念仏宗は日本と中国の礼に反している」、「これまでの教えを排して阿弥陀仏が流行するのは時期尚早」など7項目を朝廷に提出され、翌年には奈良の興福寺が法然らの処罰と教団の解散を朝廷に求めました。だが、朝廷は法然を「お咎め無し」にしました。法然に味方したのでは無く、たびたび朝廷に無理難題を持ち込む比叡山と興福寺に今さら頭を下げられても困ると思ったらしいです。だが事態は急変します。1206年、法然の弟子である安楽(あんらく)と住蓮(じゅうれん)の二人が、後鳥羽上皇の部下の女性と肉体関係を持ったとの噂が立ちます。後鳥羽上皇は激怒し、法然らは次々と逮捕されました。九条兼実が手を尽くして法然をかばうも果たせず、教団は解散、念仏は禁止、安楽と住蓮含め4人が死刑、法然と親鸞など8人は流罪にされました。たくさんいる法然の弟子の中で親鸞が流罪にされたのは、「肉食妻帯(にくじきさいたい)」と言って、僧侶なのに堂々と肉を食べて妻を持つことをしていたのが原因です。隠れて肉食妻帯していた法然の他の弟子は罪に問われませんでした。流罪になった法然は土佐(高知県)に、親鸞は越後(新潟県)に流されました。もともと法然の流罪先は讃岐(香川県)でしたが、九条兼実が自分の支配する土佐に変えました。この時は、法然75歳、親鸞35歳で、この別れが二人の生涯の別れになりました。親鸞は流刑地の北陸で積極的な布教活動をし、それが現在に至るまで富山県や福井県で浄土真宗が熱心に信仰されている理由です。
親鸞には記録に残るだけでも6から7人の子供がいました。だが妻については不明な点が多いです。史料からは複数人の妻がいたと考えられますが、はっきりしているのは恵信尼(えしんに)だけです。大正10年(1921)に西本願寺の蔵から10通の恵信尼の手紙が見つかったからです。明治時代まで存在そのものが疑われがちだった親鸞が、恵信尼の手紙から証明されたのです。
越後に流された親鸞は4年後に許されましたがさらに滞在し、合計7年間、越後に滞在しました。その後に上野(こうずけ。群馬県)に行き、それから常陸(ひたち。茨城県)に移りました。なぜ関東に来たのかというと、京都ではまだ浄土宗が弾圧されていて安心できなかったし、鎌倉幕府が誕生して30年近くで文化的な事柄にも理解があり、京都で布教できなくなった僧侶を迎え入れていました。それから親鸞を支えた人物がいたからです。名前を宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)と言います。鎌倉幕府の将軍直属の家臣の一人で、下野(しもつけ。栃木県)の中南部地域を勢力圏とした大豪族でした。親鸞が関東に来る以前には、常陸の笠間郡も支配下に置くようになりました。頼綱は鎌倉幕府から謀反の疑いをかけられて出家、政治の表舞台からは退いていました。だが、法然の最晩年における有力な弟子でした。
親鸞の教えは関東でも広がり、次第に信者を増やしていきます。親鸞の弟子の中で、優れた者が24人いました。彼らは「二十四輩(にじゅうよはい)」と呼ばれました。二十四輩が開いた、または二十四輩を名乗る寺院は全国に百数十あると言います。常陸には当時、修験道(しゅげんどう)と言う、山林で修行し,密教的な儀礼を行い,霊験を得ようとする宗教があり、その道場の頭領が弁円(べんねん)と言いました。地元の人に信じられていましたが、「念仏を唱えれば救われる」という親鸞の教えに人々が惹かれ、修験道を頼みにする人が減りました。怒った弁円は親鸞を恨むようになりました。そして親鸞に直接に会って危害を加えようとします。親鸞は何ごともなかったような自然な態度で、弁円を温かく迎えます。弁円は親鸞を見た途端に危害を加えようとする気持ちが消え、後悔の涙が止まりませんでした。そして「弟子にしてください」とお願いしました。親鸞が49歳、弁円が42歳の時でした。弁円はなぜ一人で会いに行ったのか。親鸞を殺すことが目的ならば弟子たちを連れて行ったはずです。しかし自らの信じてきた修験道に迷いが生まれて、心が揺らぎ、親鸞という人物とその教えを確かめようと一人で行き、どうしても話がしたかったのではないかという説があります。弁円は、二十四輩の第十九として活躍、1251年に71才で亡くなりました。その時京都にいた親鸞は、79歳でした。
関東で20年を過ごした親鸞は、京都に戻りました。親鸞の生涯には謎が多いです。60歳を過ぎてから住み慣れた関東の地を離れて京都に戻ったこともそうです。鎌倉幕府による弾圧を受けたとか、著作を完成させるにあたって都の情勢を知るためなど諸説考えられています。流罪にされてからほぼ30年ぶりの京都、師匠の法然は20年以上前に亡くなっています。親鸞には家も財産もなかった。さらに京都では念仏禁止令まで出されていました。親鸞は住むところを転々としたそうです。関東の信者からの寄付で、何とか暮らす状態だったと思われます。親鸞は、のちに浄土真宗の根本聖典になる「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」を75歳頃までに完成させています。さらには「浄土和讃」、「高僧和讃」、「一念多念文意(いちねんたねんもんい)」など数多くの書物を書きました。その合間に、関東から訪ねてくる弟子に面会したり、手紙を書いたり、多忙でした。親鸞82歳の頃、妻の恵信尼が越後へ戻りました。結局、これが親鸞と恵信尼の最後の別れとなります。また親鸞は、関東の弟子や信者を混乱に陥れたわが子・善鸞(ぜんらん)と親子の縁を絶ちました。このように80歳を過ぎてから妻や子どもと離れなくてはならなかった。その寂しさは想像以上です。しかし親鸞が到達した信心の境地が、自然のままに生き、おのずから救われるという「他力」の極みといえるものでした。
1262年11月28日、親鸞は90歳で亡くなりました。亡きがらは鳥辺山で火葬され、大谷で埋葬されました。それから5年後に恵信尼も亡くなり、10年後の1272年に末娘の覚信尼(かくしんに)が簡素なものであった墓所から親鸞の遺骨を吉水に改葬し、六角の廟堂を建てました。場所は現在の知恩院の山門北あたりと伝わっています。親鸞は「私が死んだら、川に入れて魚のエサにしてくれ」と言っていましたが、かないませんでした。覚信尼はみずから父の廟堂をまもる「留守職(るすしき)」という立場になります。「大谷廟堂」と呼ばれたこの廟堂が、「本願寺」の始まりです。留守職はその後、覚信尼の息子の覚恵、さらに孫の覚如が引き継ぎ、仏教界では異例の血縁で受け継がれたのでした。覚如は、曾祖父の親鸞から続く自身の血脈を確かなものとするため大谷廟堂を寺院化しました。本願寺の名前を使い始めたのもこの頃で、彼が本願寺の実質的な開祖といわれます。その後、第8世の蓮如(れんにょ)の時代に、本願寺は比叡山の僧兵に襲われて壊されました。蓮如は、越前の吉崎へと行きました。約4年間を過ごした後に吉崎を離れ、京都へ戻り、山科(やましな)に本願寺を建てました。さらに現在の大阪城の場所に大坂御坊を建てました。のちの石山本願寺です。蓮如は「講(こう)」と呼ばれる組織を作り、団結する場ができていきました。一向(ひたすら)に「南無阿弥陀仏」と唱える彼らを他宗の信者などが「一向宗(いっこうしゅう)」と呼びました。この団結力は各地の支配者層、つまり守護大名などに対する反発力を生みました。民衆だけでなく、国人や豪族らも一向宗に加わりました。一向宗が起こす一揆「一向一揆」は為政者を悩ませました。その最盛期が第11代の顕如(けんにょ)の時代で、ちょうど織田信長が伸びてきた頃と、ほぼ同時期でした。そして顕如と信長は11年も続く「石山合戦」を戦いました。1580年、顕如は信長と和睦して、石山本願寺を明け渡してこの戦いは終わりました。1591年、豊臣秀吉に土地をもらい、顕如は京都へ戻りました。この場所が、今の西本願寺です。1603年、徳川家康は知恩院を拡張することになり、親鸞の廟堂と墓も2キロほど離れた鳥辺山へ移転しました。この時期、本願寺は「東本願寺」と「西本願寺」に別れました。親鸞の廟堂と墓は西本願寺に属し、現在の「大谷本廟」となりました。
本願寺が東西に別れたのは、織田信長と石山本願寺の戦いが原因です。第11代の顕如は10年以上も続いた戦いを終わらせるため、信長との和議に応じました。これに対して、なお籠城を続けて徹底抗戦を唱えたのが長男の教如でした。信長が死んで豊臣秀吉が天下人になると、本願寺は京都への復帰が許され一度は教如が継承しました。だが1593年、教如の母が三男の准如の本願寺継承を訴え、これが許されて教如は隠居に追い込まれます。しかし本願寺の中には教如を支持する勢力もありました。そして秀吉が死んだ後、教如は新たな天下人の徳川家康と計画して、京都の烏丸六条の土地(現在の東本願寺の土地)を譲り受けました。1602年のことです。准如の本願寺は西本願寺と呼ばれ「本願寺派」が誕生、教如の本願寺は東本願寺と呼ばれ「真宗大谷派」が誕生しました。
以下の雑誌を参考にしました。
・「時空旅人 2023年 第73号」(プラネットライツ。1280円)