「日本仏教の戦争協力」
2025年(令和7年)8月13日(水) 午前11時 会場:弘宣寺 本堂
弘宣寺 住職 八村弘昭(やつむら ひろあき)
国家にすり寄った仏教
江戸から明治に変わった時、一般庶民の間では「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」が起こりました。また明治政府による寺社領が召し上げられた「上知令(あげちれい)」、肉食妻帯などを許した僧侶の俗化政策、僧侶の職業化などがあり、圧力がありました。こうした圧力は仏教者を怯えさせました。仏教側、特に弘宣寺の所属する浄土真宗は政府に極端なほど従い、それは国家への献金運動などに発展していきます。結果的に、富国強兵、植民地政策に加担することになりました。明治維新で国家神道に切り替わった後、国家と仏教が互いに利用し合う「国家仏教」体制が整えられていきました。
明治維新以降、太平洋戦争終結までの日本仏教界の実態は、仏教界にとって不都合な真実として、積極的に明らかにされてきませんでした。実際、仏教界がやってきたことは、宗教の本分である「衆生(しゅじょう)の救済」からは、かけ離れたものでした。もっともそれは神道をはじめとする、ほぼ全ての宗教団体にもいえることですが。仏教教団は、日清戦争を契機にして、こぞって台湾や大陸に進出。植民地政策の一翼を担いました。明治時代になった時、政府は神仏分離令を出しました。これまで一緒だった仏と神を、明確に切り離せという命令でした。明治政府としては、天皇を中心とする純然たる国家神道体制を樹立するためには、仏教と混じったままではまずかったのでした。だが、この法令を拡大解釈した権力者や一般庶民は、仏教にたいする破壊行動、いわゆる廃仏毀釈へと向かいます。それまでの江戸時代における寺請制度では、仏教界は過剰に庇護されてきました。一つのムラに一つの寺院を設け(一村一寺)、ムラ人はすべて寺の檀家になりました。そして、全国民が宗門人別改帳に記載され「国民全てが仏教徒」の体制ができあがっていました。仏教界は著しく堕落し、「衆生救済」からは遠ざかっていきました。人々の仏教界にたいする失望は膨らみ、明治時代に切り替わった瞬間に溜まったエネルギーが爆発しました。そして、各地の寺院への破壊行為へと発展したのです。廃仏毀釈により、江戸時代に全国に9万ヵ寺あったお寺は半分になりました。なかには殺された僧侶もいました。こうして新しい日本は、寺請制度を利用した江戸時代の体制から国家神道を軸とした天皇制国家へと切り替わったのです。
浄土真宗は倒幕の動きがみえ始めた幕末には早くも、水面下で朝廷にすり寄る態度をみせていました。朝廷に献金という形で政治的な立ち回りをし始めていました。西本願寺の門主の広如は遺言で「天皇に忠義を示し、天皇から授かったこの上もない恩義に報いることで、死後は極楽に往生し、この世の苦から免れることができる」と残しました。この遺言に書かれていた「真俗二諦(しんぞくにたい)」という考えは、「この世は迷い、煩悩に満ちている。なので真理のあり方は、状況や時勢によって変わりうる。しがしながら、仏教思想そのものは、現実社会という基盤があってこそ成り立つもの。だから、世俗的な真理は、それはそれで深く探求しなければならない。有難いことに、この世には絶対的な存在、天皇がいる。その天皇を敬い、従うことで我々は現世で救われる」というものです。短く言えば、「我々はこの世では天皇に、あの世では仏に帰依せよ」ということです。
日清戦争と大陸布教
日清戦争は日本仏教にとって、試金石となりました。浄土真宗の僧侶が、大陸に初進出。上海や北京などにお寺が建てられ、大陸布教の拠点となりました。この地での僧侶(従軍僧)の役割は、軍隊慰問や、戦死者の慰霊、捕虜への説法などでした。それにつづく日露戦争では、仏教教団はより一層、戦時加担を強めていきます。僧侶により戦争を肯定する教義が打ち出されると、堰を切ったように各教団は従軍僧を派遣しました。軍部と仏教教団は協調しながら植民地の拡大に歩調を合わせるように、お寺を次々に建てていきました。戦地では戦死する僧侶も出ました。
明治以降、仏教が国家への接近を深めるなか、勃発したのが日清戦争です。日清戦争は近代日本における最初の本格的な戦争でした。仏教界において大陸進出の先陣を切ったのは、やはり浄土真宗でした。その最初は、大谷派でした。東本願寺上海別院を造りました。日清戦争の頃には、仏教界はすっかり帝国主義に浸かっていました。東西本願寺は軍の駐留地などに慰問使を派遣しました。さらに軍と行動を共にする従軍布教を開始します。戦地に法衣を持参し、お経をあげる従軍僧は兵士らから崇敬される存在でした。続いて天台宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗などからも従軍僧が派遣されました。日清戦争の時の従軍僧は、戦闘に加わることはせず、戦死者や軍馬、軍用犬などの弔いや、兵隊の心的ケア、捕虜への説教が中心でした。曹洞宗は台湾の台北に大本山別院を開き、本願寺派は韓国の釜山と台湾で布教を開始しています。浄土宗も韓国開教使を派遣、真言宗は軍隊布教練習場を開設しています。
朝鮮半島および南満州の支配権を巡って日露両国が衝突したのが、日露戦争です。この時の各仏教教団の動きは、日清戦争とは比較できないほど大きなものでした。浄土真宗以外にも、多数の宗派が教団をあげて従軍僧を大陸に派遣し、また、寺院や布教所を続々開設するなど、積極的に戦時協力しました。この頃になると、「国家と仏教の関係」を説く学者が、続々登場し始めます。鈴木大拙など国内では複数の著名な仏教学者らが活動していました。彼らは、もれなく戦争を正当化する論陣を張りました。「もし日露間で戦いが起きることがあれば、仏教者が進んでロシアと戦うのは当然のことだ。仏の恩に報いるためには、このほかに選択肢はない」と言っていました。浄土真宗本願寺派は105名の僧侶を戦地に派遣しました。日本の陸軍は、各宗派のトップに、宗派を超えて、戦時協力体制を敷くよう命じています。日露戦争の正当性や戦時協力を、仏教の立場から檀家に説くよう圧力をかけてきました。日蓮宗、浄土宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗が従軍僧を大陸に派遣しました。その従軍僧は何人も戦死してます。
植民地支配と仏教
日清・日露戦争から日中戦争勃発前までの開教の流れを、満州、台湾、朝鮮半島の地域に分けてみました。満州に真っ先に進出したのは浄土真宗でした。最初は軍人向けのサロンの中での布教、慰問でした。満州国が建国され、日本人移民の入植が始まると、寺院が続々と建てられていきます。浄土真宗本願寺派では終戦までに69ヶ寺が建てられました。満州における開教は、浄土真宗が素早かったです。西本願寺は関東別院を造り、その隣に大谷派が東本願寺別院を建てました。他の宗派では、浄土宗、日蓮宗、臨済宗がお寺を建てました。出遅れたのが曹洞宗でした。満州事変をきっかけにして満州国が建国され、束の間の平穏な時代がやってくると、仏教界は満州を「開教区」と定め、より本格的に寺院や布教所の開設に乗り出しました。満州における布教所の数は、浄土真宗大谷派で80、浄土真宗本願寺派で53、真言宗で40、曹洞宗で37、日蓮宗で34、浄土宗で28、臨済宗で9、天台宗で2でした。
過酷な台湾布教のなかで主導権を握ったのは曹洞宗でした。台湾仏教の観音信仰と禅の精神が結びついたからです。日本の曹洞宗の本山は台湾寺院と本山・末寺の関係を結び、台湾人に教えを広めました。情勢が安定してくると他の宗派も本格的に開教を開始しました。浄土真宗本願寺派は台北別院を拠点にして、大東亜戦争終了までに63ヶ寺を建てました。
朝鮮半島では韓国併合後、政府主導の宗教政策が採られました。その結果、朝鮮寺院の末寺化や、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀(まつ)った朝鮮神社を建てたりしました。最終的には朝鮮半島では終戦までに、浄土真宗本願寺派が132ヶ寺、曹洞宗が103ヶ寺を建てました。
戦争に熱狂する仏教界
大陸や台湾に進出していった日本仏教界は、もはや慈悲や衆生の救済を説くことを忘れてしまいました。日中戦争が勃発すると、各宗派のトップが天皇のご機嫌伺いに参上するなど、どっぷりと皇道仏教に浸かっていきます。極端に右傾化する僧侶も現れ、戦地に派遣された僧侶は、戒を破ることも厭(いと)わず、スパイ活動や戦闘に参加していきます。昭和初期、仏教の天皇にたいする忠孝思想が確固たるものとして体系化されます。それは「皇道仏教」という、戦時下における新しい仏教のあり方でした。つまり、絶対的な存在、天皇を支えるための仏教、という意味です。「日本仏教は天皇あってこそである」「天皇は阿弥陀仏である」などと仏教教義をねじ曲げました。もはや「慈悲」や「寛容」を説く本来の仏教ではありませんでした。日中戦争が始まると、各宗派のトップは「戦争をがんばれ」と僧侶や檀家に話しました。従軍僧も、日中戦争での役割は、より踏み込んだものになり、兵士とともに武器を持って前線に立つ僧侶も少なくなく、失われた命もありました。日本仏教界はついに一線を越え、「戦闘への参加」を宣言しました。仏教者にとって「不殺生(生き物を殺してはならない)」は最重要の戒です。しかし、その大切な誡めをも仏教界はねじ曲げ、都合のよい解釈をしていきます。それは、聖戦のためであれば敵を殺すことを容認するというものでした。
戦闘機の献納競争
日本仏教が主体的に戦争に関わった事例が、零戦をはじめとする軍用機、あるいは軍艦の献納です。仏教者が殺戮の道具である兵器を造って納めることに、本人たちは何の罪悪感も持っていませんでした。戦闘機の献納を最も積極的に実施したのが浄土宗です。陸軍と海軍に計18機を献納。仏教界全体では50機以上が献納され、終戦直前には特攻機として使用されました。浄土真宗大谷派では軍艦の建造も行っていました。
浄土真宗本願寺派は地域ごとに五機献納し、大谷派は軍用機の献納はみられませんが軍艦製造のために現在のお金で25億円を海軍に献金していました。
寺院に残る戦争の記憶
各宗派は、檀家の中で戦死者が出た場合の慰霊について、末寺に指示しました。戦死者の戒名には、もれなく最高位の「院」や「居士」が与えられました。また、戒名には「義」「烈」「勇」「忠」「國」「誠」などの国粋主義を連想するような文言が選ばれています。戦時戒名は日中戦争を契機にして付けられ、終戦をもって完全に姿を消しています。
アメとムチの仏教統制
明治維新時に担保された「信教の自由」が白紙に戻されたのが、1940年(昭和15年)の宗教団体法の施行であります。わが国初の宗教に関する一般法である宗教団体法によって、13宗56派に別れていた仏教宗派は13宗28派にまとめられました。日中戦争勃発以降、日本仏教界は完全に政府の方針に付き従う態度を取り始めます。文部省は各宗派の代表を集め、時局の説明をするとともに、より一層の協力体制を求めました。仏教教団にたいする国家の圧力は1940年の大政翼賛会の発足に伴って強まります。政府は宗教団体をコントロール下に置き、国家主導で皇道仏教を推し進めようと考えました。宗教団体法の成立によって、宗教団体の設立や合併、解散などには文部省や行政の長の認可が必要になりました。同時に宗教法人は国から監視・監督され、宗教活動の制限や干渉をうけることになりました。違反者に対して処罰することも可能になりました。つまり、戦争反対を扇動する僧侶の出現などにたいしてであります。しかし宗教団体法は仏教側にとっても都合のよい話でした。それは半世紀以上も前の上知令で没収された土地の還付という交換条件がついていたからでした。没収され、返還を要求していたお寺はおよそ3万ヶ寺、境内地は総計2500万坪に及んでいました。だが、返還を可能にするのは国が認めた宗教法人傘下のお寺であることが前提になります。そのための根拠法として、宗教団体法が必要というわけです。こうして境内地はお寺に還付されることになりました。むしろ教団や末寺は法案の成立を望んでいたのです。仮に信教の自由が侵害されたとしても。
金属供出と空襲
日米開戦が迫ると、圧倒的に不足する軍用資材を補う「金属回収」の主たるターゲットに各地の寺院が当てられました。その最大の犠牲になったのが、梵鐘です。文化的価値のあるわずかな鐘を除いて、4万7000口(全体の9割以上)もの梵鐘が武器になっていきました。今でも梵鐘がないお寺が多いのは、戦時中の金属供出で失われてしまったからです。金属供出とは、銃器や軍艦などの製造のために金属製品を差し出すことです。日本は金属資源に乏しく、資源の輸出規制を受けると武器を製造できなくなります。1940年(昭和15年)9月、アメリカはくず鉄などの日本への輸出禁止に踏み切ります。この経済封鎖に、日本政府は焦りだします。その11ヶ月後に国家総動員法に基づき、金属類回収令が公布されます。これによって強制的に金属製品が回収されることになりました。こうして、お寺が保有する梵鐘や半鐘などの金属製宗教用具が消えていったのです。だから、近世の名工の手による仏具は、ほとんど今に伝わっていません。大坂の四天王寺では世界最大級の梵鐘が回収されていました。高さ8メートル近い大梵鐘が作られるも、わずか40年後には解体されました。
戦争協力を最も積極的に行ってきた浄土真宗ではありますが、戦争責任を仏教界で最初に明確にし、謝罪しました。大谷派は日中戦争勃発50年の節目である1987(昭和62)年に過ちを認めました。1990年代には本願寺派、曹洞宗、浄土宗などが戦争責任を認めました。
以下の雑誌を参考にしました。
・「仏教の大東亜戦争」(鵜飼秀徳。1100円)
釧路市中央図書館にあります。