「インド仏教の歴史」

2019年(令和元年)813() 午前11時 会場:弘宣寺 本堂

弘宣寺 若 八村弘昭(やつむら ひろあき)

 

時代的背景

 

仏教が起こる前のインドでは、ガンジス河の上流地域を中心として、アーリヤ人(インド文化の主流の人種で、西洋人と同じ種族)が家畜を飼い、農業をしていました。

 

そこではたくさんの村ができて、司祭者(バラモン)を中心として階級的な区別がありました。インド独特の階級制度で、それぞれの階級をカーストと呼びます。カーストは四つあって、一番偉いのが「司祭者」、二番目が「王族」、三番目が「庶民」、一番低いカーストが「奴隷」です。異なったカーストの間では結婚が禁止されて、後の時代になると食事を一緒にとることも禁止されました。

 

アーリヤ人がインド全体に進出すると、インドの先住民族との間で結婚をして子どもを作りました。

 

この地域では最初は多くの小都市を中心にしたたくさんの小さな国があり、ある国は貴族政治、ある国は共和政治を行っていましたが、それらは次第に国王の統治する大国に併合されていきました。

 

積極的に森を切り開き田畑を作り、農業用水の設備も作り出したので、たくさんの農産物がとれて生活は豊かで余裕がありました。

 

物が豊富になると商工業が発達しました。お金を使うようになり、都市には莫大な財産ができて、商工業者たちは多数の組合を作り、経済的な実権を握りました。

 

この時代にインドは「考える自由」と「発表の自由」がものすごく認められていました。現代のヨーロッパと同じくらいに自由だったと言う人もいます。なのでたくさんの思想家が出て来ました。「道徳を否定する考え」や、「真理をあるがままに理解し、話すことは不可能であるという考え」がありました。

 

 

お釈迦さまの誕生

 

仏教は、お釈迦さまの作った教えです。インドでは「ブッダ」と呼ばれていました。漢字で書くと「仏」とか「仏陀」となります。ブッダというのは「めざめた人、覚った人」という意味で、私たちは迷いの世界にいますが、パッとめざめて、真理をさとったのでこのように呼ばれています。

 

お釈迦さまは、名字を「ゴータマ」、名前を「シッダッタ」といいます。ゴータマというのは「最も良い牛」という意味で、昔のインドではすぐれた名字とされていました。シッダッタとは「目的を達成した者」という意味です。

 

お釈迦さまは、ネパールの釈迦族の王子として生まれました。釈迦族の王子なので「お釈迦さま」と呼ばれています。

 

お釈迦さまは、生まれがネパールで、活動したのがインドでした。

 

お釈迦さまが生まれた年は、昔のこと過ぎるので正確にはわかりませんが、約2500年前ぐらいだという考えがあります。学者によって、100年ぐらい違いがあります。しかし大昔のインドのことでわずか100年の差しか無いのは驚くべきことだという学者がいます。

 

お釈迦さまの誕生日は48日と伝えられていて、なので釧路市仏教会でもこの日に誕生を祝う「花まつり」をしています。

 

お釈迦さまは、生まれて7日でお母さんが死んでしまい、お母さんの妹が新しい母親となって育てました。

 

お釈迦さまは、王子として何不自由の無い生活を送っていましたが、それに満足せず、物思いにふけることがあったといいます。

 

お釈迦さまは、16才の時に結婚して子どもを作りましたが、深く人生の問題に悩んでいました。

 

29才の時、お釈迦さまはついに出家して、修行者となりました。この時代のインドでは、道を求める人は修行者になるのが普通でした。

 

二人の仙人を訪ねて修行したけれど、満足することができませんでした。

 

山にこもって6年間も苦しい修行をしたけれど、悟りを得ることはできませんでした。

 

そこで苦行は無意味だと知って、少女のくれた牛乳をまぜて炊いた粥を飲んで元気を回復しました。

 

それからブッダガヤ―と呼ばれるところの菩提樹の木の下で瞑想し、悟りを開きました。35才のことでした。

 

 

伝道

 

悟りを開いてからお釈迦さまはベナレスという街に行き、修業時代の友達5人に教えを説き、ここで初めて仏教教団が成立しました。

 

それからお釈迦さまの教えを伝える活動が始まりました。毎年の雨期には旅行できないから一カ所にとどまっていましたが、それ以外の時期はつねにいろんな所に行って教えを伝えました。

 

お釈迦さまの教えを伝える中心地は、インドの中で一番強くて大きかったマガダ国の首都「王舎城」と、生まれ故郷に近いサーヴァッティ市でした。王舎城では王様から首都の郊外にある竹林園を「瞑想に適しているため」にもらいました。サーヴァッティ市では、お金持ちが土地を買って寄付してくれたので、そこに建てられたのが祇園精舎です。

 

 

終わりの時期と死

 

お釈迦さまは、弟子たちを連れて自分の故郷に向かって旅立っていきます。旅の途中でお釈迦さまは自分の健康の衰えたことを嘆いています。しかしお釈迦さまの意識はハッキリしていて、真理を悟った者としての自覚もハッキリと持っていました。

 

お釈迦さまは、自分が仏教教団の指導者であるということをみずから否定しています。たよるべきものは自分自身だからです。

 

ある村で寄付された食べ物にあたって重い病が起こり、血が出て、激しい苦痛がおきました。このようにしてお釈迦さまは、だんだんと衰えていきました。

 

それでもお釈迦さまはひるまずに旅を続けます。そしてネパールの国境に近いクシナーラというところに来た時に、亡くなりました。80才でした。弟子たちや信者たちに見守られながら、やすらかに息をひきとりました。

 

お釈迦さまの亡くなった年月は不明です。

 

お釈迦さまは亡くなってすぐに火葬されて、八つの部族が遺骨を要求したので分けて、八つのお墓が作られました。

 

 

お釈迦さまの死後

 

お釈迦さまが亡くなると、教えを整理して紙に記録するために話し合いが行われました。そして、教えをまとめた「経(きょう)」、修行者や生活規則をまとめた「律(りつ)」が作られました。

 

さらに約100年後、第二回目の話し合いが行われ、「律」の解釈を巡って保守的な上座部と開放的な大衆部に分裂しました。これを根本分裂と呼びます。この二つの部派はさらに分裂していきます。

 

インドを統一したアショーカ王が仏教をひろめたのでインド全体で知られるようになりました。

 

自分だけを救う修行者のことを「小乗(小さな乗り物」と悪く呼んで、たくさんの人を救おうとする自分たちを「大乗(大きな乗り物)」と呼んだ大乗仏教が起こりました。中国や日本の仏教は、大乗仏教です。

 

大乗仏教が作った経典は、「般若経」、「華厳経」、「法華経」、「無量寿経」などがあります。

 

インドの仏教は最後は「秘密の仏教」という意味の「密教」が中心になります。難しくなって一般の人たちがついて行けなくなったそれまでの仏教に対して、密教はやさしかったからです。そして密教はだんだんと、インド特有の宗教であるヒンドゥー教と区別がつかなくなりました。

 

1203年、仏教の拠点の一つであったヴィクラマシーラ寺がイスラム教徒に襲われて破壊されて、インドでの仏教は消滅しました。

 

 

仏教の広がり

 

スリランカ、カンボジアに仏教が伝えられました。カンボジアのお寺のアンコールワットは世界遺産になっています。

 

ミャンマー、タイ、インドネシアにも伝えられました。

 

シルクロードを通って中国に仏教が伝わり、チベットにも仏教が伝わりました。

 

中国から朝鮮を通って、日本にも仏教が伝わりました。

 

 

 

以下の本を参考にしました。

 

・「お坊さんも学ぶ仏教学の基礎 1 インド編 改訂版」(大正大学仏教学科編。大正大学出版会。1500円)

 

・「原始仏教 その思想と生活」(中村元。NHKブックス。870円)


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