「法然」
2024年(令和6年)9月22日(日) 午前11時 会場:弘宣寺 本堂
弘宣寺 住職 八村弘昭(やつむら ひろあき)
弘宣寺は浄土真宗ですが、浄土真宗を作った親鸞の師匠は、浄土宗を作った法然です。法然がどんな教えをしたのかを見ていきたいと思います。
1、法然の生涯
1133年、美作(みまさか。岡山県)の漆間時国(うるま ときくに)の息子として、法然は生まれました。その時の名前は「勢至丸」と言います。時国は武士でした。しかし勢至丸が9才の時、時国は争いで命を落とします。勢至丸に「お前が恨まれ、遺恨が繰り返されるから復讐を考えてはならない。出家して、仏の道を歩め」と言い残しました。父の遺言通りに、13才で勢至丸は比叡山の修行僧になります。天台宗の教えを学び、18才の時、「法然房源空」と名付けられました。法然の誕生です。浄土教を初めて学びました。24才でいったん比叡山を下り、奈良で三論宗や法相宗の僧侶と会います。奈良のお寺と比叡山は対立関係にありましたが、法然は自分が学んだ教えが正しいか、他の宗派の教えに誤りがないか知りたかったのだと思います。比叡山に戻った法然は、中国の僧侶の善導が書いた仏教書に出会います。ここで「南無阿弥陀仏」の教えを知って、これこそが自分を救う教えだと確信し、比叡山での修行をやめました。年齢は43才になっていました。
法然は京都で10年あまり念仏の教えを広めました。すると京都の大原で他の宗派の僧侶と阿弥陀仏の教えについて問答しました。これが「大原問答」です。「仏教とは何のためにあるのか」、「それは人を選ばず、すべての人を救うためではないか」、「天台・真言・華厳・禅の各宗の教えに比べ、浄土の教えの何が優れているか」、「結局、いかに優れた教えといえども数多の人々が実践できなくては意味がない」などの問いが一昼夜続き、法然は次々とよどみなく答えを返したといわれています。結果として、法然に軍配が上がりました。大原問答によって法然の名声は高まり、信者や弟子が急速に増えました。
1207年、後鳥羽上皇の女性の部下が法然の弟子の安楽(あんらく)と住蓮(じゅうれん)と肉体関係を持ったとの噂が流れ、上皇は安楽と住蓮を死刑、法然と弟子の親鸞など7名を流罪にしました。法然と親鸞は僧侶の資格を剥奪され、法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」という名前を名乗らされました。法然は讃岐(香川県)に、親鸞は越後(新潟県)に流されました。二人は出会って6年。これが生涯の別れになりました。同年12月、法然は許されましたが、京都へ入ることは禁じられました。そこで摂津(大阪府西部と兵庫県南東部)に4年間、滞在しました。京都に戻れたのは1211年、79才の時でした。戻った先は東山の吉水・大谷禅房。今の知恩院の場所です。翌年、病気になった法然は亡くなりました。享年80才でした。
2、法然の祈りと願い
平安時代後期に仏教は飛躍的な発展を遂げました。天皇家は藤原氏から権力を奪い返すと、仏教振興を主導することで権力の強化を図りました。白河・鳥羽・後白河上皇はいずれも法皇となり、平和(鎮護国家)と繁栄(五穀豊穣)を実現するために仏教興隆に取り組みました。こうして仏教は大いに発展しました。
しかし源平内乱は仏教界に衝撃を与えました。これは日本の歴史で初めての全国的内乱であり、長期にわたる戦乱は地域や民衆に深刻な被害を与えました。そこにあって仏教は無力さを露呈しました。
朝廷はこれまで、祈りの力で平和と繁栄を実現しようとしました。そして壮麗な寺院を建立し、数多くの僧侶を育成してきました。にもかかわらず、鎮護国家の祈りに効き目がなかったのです。しかも東大寺の大仏が燃えました。
本来であれば東大寺大仏は鎮護国家の要として、戦乱を鎮めなければなりません。ところが実際には戦乱によって大仏が燃えてしまった。これは仏教が戦争に敗れたことを意味しました。
何かが間違っていた。何を間違ったのか。僧侶たちはこの深刻な問いを繰り返しました。そうした中から二つの流れが登場してきます。穏健改革派と急進改革派です。
臨済宗を作った栄西(えいさい)は穏健改革派で、僧侶のあり方に問題があったと考えました。これまでの仏教の教えは正しいが、僧侶たちは戒律を護っていない。女性と肉体関係を持ったり、妻を持ったりする僧侶がたくさんいて、平安末には寺院を自分の子どもに継がせる風潮が広まっています。穏健改革派はそこに問題があると考えました。戒律も護っていない僧侶の祈りに効き目があろうはずがない。そこで彼らは、きびしく戒律を護ることで、仏教の教えを再生させようとしました。
それに対して急進改革派は、これまでの仏教の教えそのものに問題があると考えました。そして浄土宗を作った法然・浄土真宗を作った親鸞・曹洞宗を作った道元・日蓮宗を作った日蓮は仏教の教えを根本から問い直して、ありうべき仏教を探しました。こうした改革運動に対し、朝廷・幕府は穏健改革派を保護しましたが、急進改革派に対しては弾圧を加えました。急進派による仏教の見直しとその批判を、仏教の教えを逸脱するものと断じたのでした。法然や親鸞は1207年に流罪にされ、法然の「ただ南無阿弥陀仏を称えれば良い」という教えは鎌倉時代に禁止令が10度も出されました。道元は1243年に朝廷から追放処分をうけ、追い出される直前に越前(福井県)に逃れました。日蓮も1271年に佐渡(佐渡島)に流罪になりました。そのうえ、朝廷は1227年に法然が書いた「選択本願念仏集」を禁止とし、印刷の版木もろとも燃やしました。日本の歴史で最初に発禁処分を受けた書物が、法然の選択本願念仏集です。
では法然は選択本願念仏集で何を説いたのか。「お寺や仏像を造ることを極楽往生の条件にすると、貧しい人は往生を諦めてしまう。知恵や才能を条件にすれば、愚かな人も諦めてしまう。そして現実には、貧しく愚かな者はたいへん多く、富める者や優秀な人は非常に少ない。そこで阿弥陀仏は、すべての人を救いたいとの慈悲の心から、お寺や仏像を造るなどを往生の条件にせず、南無阿弥陀仏と唱えることだけを条件とされた」。選択本願念仏集の核心です。すべての人々をあまねく救うため、阿弥陀仏は、誰でも可能な南無阿弥陀仏を極楽往生の条件に選んだ、と述べています。ここで語られている阿弥陀仏の慈悲の心は、法然自身の想いでもあります。社会から見捨てられがちな人たちへの温かな眼差しが印象的です。
念仏はこれまでの仏教でも勧められていました。しかし、南無阿弥陀仏と口で唱えることは、仏教の数ある行の中で最もレベルが低く、功徳も劣ると考えられていました。そのため、南無阿弥陀仏と唱えるだけでなく、できるだけ多くの善い行いを積むことが勧められました。それに対し法然は、「南無阿弥陀仏と唱えることは阿弥陀仏が選んだ唯一の往生の行であるから、それ以外は不要だ」と主張しました。南無阿弥陀仏と唱えること以外の行はゼロ価値になってしまいました。南無阿弥陀仏の絶対化と、南無阿弥陀仏以外の否定、これが法然思想の核心です。
となれば、南無阿弥陀仏の功徳の少なさを、他の善い行いで補う必要がなくなります。「助けの不要な念仏」の誕生です。補助は不要となり、ひたすら南無阿弥陀仏を唱えればよいことになります。これが「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」です。戒律を護ることも、写経やお寺や仏像を造ることも必要なくなります。
そして法然は「もとのままの念仏」を提唱しました。極楽往生のためには南無阿弥陀仏と唱えることがすべてなので、それ以外に生活を改める必要がない。善人は善人のまま、悪人は悪人のまま、漁師は漁師のまま、遊女は遊女のまま、そのままで南無阿弥陀仏を唱えればよいのです。これまでの生活を悔い改める必要はありません。
もちろん、私たちは人間世界で生きています。そうである以上、善いことをするのが望ましいのは当然です。親孝行はした方がよいし、他人にも優しくするのが望ましい。しかしそれは人間の倫理観として望ましいのであって、それと往生とは無関係です。こうした善い行いは、自分の分に応じて無理のない範囲でやればよい、と法然はいいます。
これまでの仏教は、往生への願いと地獄に墜ちることの恐怖をテコに、人々に善い行いを勧め、時にはそれを強要・強制してきました。しかもその善い行いに年貢を納めることが付け加えられ、領主に対する反抗は地獄に墜ちる悪い行いと誡められました。荘園支配の現場では「年貢を納めれば極楽に行けるが、領主に背くと地獄に墜ちる」と語られました。それに対し法然は、仏教の世界と人間の世界とを切り分け、宗教的な善い行いは南無阿弥陀仏と唱えるだけに限りました。そして、それ以外を人間の倫理の世界に返し、無理のない範囲で善い行いを行えばよい、としました。
「これまでの仏教は智慧を極めて悟りを開くものだが、浄土教では愚痴に還って極楽に往生する」。これも法然の個性的な発言です。そして、この言葉の背後には彼独特の人間観がありました。先ほど書いたように、これまでの仏教は南無阿弥陀仏と唱えることを、もっともレベルの低い行と位置づけていました。そのようなレベルの低い行がなぜ存在するかといえば、この世界にレベルの低い者が存在するからです。いわば南無阿弥陀仏と唱えることは、バカな民衆にあてがわれたレベルの低い方法でありました。
それに対し、法然は南無阿弥陀仏と唱えることを唯一の真の往生行と考えました。南無阿弥陀仏こそが阿弥陀仏の真実の教えであり、私たちは皆それに従うべきだ、と主張しました。南無阿弥陀仏と唱えることはバカな民衆向けのレベルの低い方法なのか、それとも南無阿弥陀仏と唱えることこそが阿弥陀仏の真実の教えなのか。
法然のこの主張の背後には、誰もが平等に愚かな者だという独自の人間観がありました。この世には、頭の良い人もいれば悪い人もいるし、真面目な人もいればそうでない者もいます。しかし、阿弥陀仏の智慧の深さや真面目さに比べれば、私たちの間の能力差など取るに足らないわずかなものです。そう、私たちは誰もが平等に愚かな者です。法然は人間の能力差を否定し、人間的能力の平等を主張しました。
それまでの仏教は民衆を無知な大衆とみなし、彼らを教え導く対象と考えました。それに対し法然は、無知な民衆に、まことの心をもった人間の姿を見いだしました。民衆は教え導く対象ではない。彼らこそが私たちの手本であり、愚か者としての自分に立ち返ることが、仏教の教えの究極なのです。 中世の世俗権力も世俗秩序も、それまでの仏教によって正当化されていました。それに対し法然は、その仏教的価値観を根底から覆しました。そのためその教えは、大衆迎合のいかがわしい教えと非難され、社会の秩序を乱す異端の教えとして弾圧されました。
法然の教えの現代的意味を考えておきましょう。手がかりとなるのが因果応報論です。「善い行いをすれば善い果報があり、悪い行いには悪い報いがある」という因果応報の教えは、人々を道徳的に導くためのものです。ところが中世では、この教えが別の役割を果たしました。格差の正当化です。 「差別や貧困は、前世での悪い行い・怠けおこたることに由来するのだから、恨むなら自分を恨め。高い身分の者や裕福な人は、前世で善い行いに励んだおかげで今の地位を得た。彼らをねたむのは間違っている。今の苦境を脱したければ、地道に努力して来世に希望をつなぐがよい」。貧困は前世でのなまけおこたることのせいにされました。究極の自己責任論です。
日本の中世は極端なまでの小さな政府の時代です。政府の力が弱く国家の公共的機能が崩壊して、人々はむき出しの弱肉強食にさらされました。その中で因果応報論は、この世の格差が前世の行為の結果の個人差に由来すると説きました。前世での努力の個人差が、この世の格差の原因と断じたのです。貧しい者はただ貧しいだけでなく、努力を怠るなまけ者と貶(おとし)められ、切り捨てられました。それに対し法然は、人間の能力差を否定し、すべての人間が平等に愚か者であると主張しました。
小さな政府と自己責任論は、今も昔も表裏一体です。社会から切り捨てられがちな人々への共感を頼りに、法然は私たちの心のきずなを取り戻そうとしています。切り捨てる社会か、それとも共に支え合う社会か。今のような時代であればこそ、法然の教えや生き方から学ぶことは数多いです。
以下の雑誌を参考にしました。
・「時空旅人 2024年 第79号」(プラネットライツ。1280円)