「檀家制度の恐ろしさ」

 2013年(平成25年)320日(水) 春のお彼岸の法話 会場:弘宣寺 本堂

1、昔のお寺はどんな存在だったのか

 

・昔の日本のお寺は武器や兵隊を持つのが常識

 

平安時代の後半(今から1000年前)から、お坊さんは今と違って、武器や兵隊(僧兵)を持っているのが常識だった。今の時代のお坊さんと違うが、誰がどのように常識を変えたのか。

 

・お寺は業界団体のボスで、そこからお金を取っていた。

 

お寺は昔は、自分でお金を稼いでいた。その方法が、今で言えば「特許料(とっきょりょう)」で、紙でも醤油でも油でも、作って売る権利を与えて、その見返りとして売れたお金の一部を取っていた。その理由は、この頃の中国は日本よりもものすごく進んでいたので、お坊さんはたくさん中国に仏教を学びに行ったのだが、同時にいろんな技術も学んで帰ってきて、それを日本の人たちに教えていた。だから「オレたちが教えたんだから、授業料を払いなさい。そして毎年、売れたお金の一部をお寺に払いなさい」と言った。作り方を学んだ人たちは、「座(ざ)」という業界団体に必ず入り、その業界団体に入らないと作ることも売ることもできない。それを管理していたのがお寺だった。もしも勝手に作ったり、売れたお金の一部を払わないと、お寺の持っている兵隊がやってきてお店を壊された。だから競争が無いので物の値段はどんどん高くなって、それを作っている人と、お寺だけが得をしていた。そこに、「自由に競争すれば、たくさんの人が入ってきて、物の値段がどんどん安くなって、みんなにいいだろう。売れたお金の一部も払わなくていいよ」と考えて、商売を完全な自由競争にしたのが織田信長の「楽市楽座(らくいちらくざ)」というやり方。ものすごく発展した。そうなるとお寺には授業料も売れたお金の一部も入ってこないので、「縄張りを荒らされた」と怒った。

 

・兵隊を持っていて、武力を使って政治に口出しをしていた。

 

京都の比叡山(ひえいざん)も、弘宣寺の本山(ほんざん。本部のこと)の本願寺も、日蓮宗も、自分で兵隊を持っていて、お寺同士で殺し合いをしていた。宗教というのは、「自分だけが正しい」と思ってしまうので、兵隊を持つと最後は「自分たちの正しさを守るために相手を殺せ」となってしまう。本願寺は京都の山科(やましな)という所にあったのだが、他の宗派にお寺を燃やされたので、大阪に移って、「戦国時代最強の城」と言われるお寺を作りった。政治にも兵隊を使って口を出して、権力争いにも自分から入っていった。比叡山は武田信玄と組んで、本願寺は毛利輝元(もうり てるもと)と組んで権力争いの主役になった。この頃の日本のお寺は、権力を持っている者でも恐れるぐらいに、お寺の兵隊の力は強かった。

 

2、お寺から武器と兵隊を取り上げたのは、信長と秀吉と家康

 

織田信長は、「正面から相手を叩きつぶす人」だった。お寺が宗教を利用しながら兵隊を使って政治に口を出すのを絶対に許さなかったので、比叡山を燃やしたり、大阪にあった本願寺を10年かけて降伏させて戦国最強の城から追い出した(その場所に秀吉が作ったのが大阪城)。しかし、信長は本願寺が「二度と武器を持って戦いません」と降伏したら、信長の弟や家来を殺されたのに許し、自由に仏教を伝えることも認めた。信長は、政治と宗教が一つになることを許さなかったが、宗教団体が宗教だけをすることはちゃんと認めた。

次の豊臣秀吉は、「仲間でいるなら攻撃しないけど、ちょっとでも逆らったら潰すよ」という人だった。比叡山のライバルだった高野山(こうやさん)に「武器を捨てなさい」と言い、高野山は素直に従ったが、逆らった根来寺(ねごろじ)というお寺は秀吉に焼かれた。信長に大阪から追い出された本願寺に、京都の土地を与えて「ここに住みなさい」と言った(この場所が今の西本願寺)。京都は平地なので守るものが何も無いので、本願寺はちょっとでも秀吉に逆らったらいつでも潰される状態になった。

そして、徳川家康は、「相手を自滅させる達人」だった。それでもまだ力が強かった本願寺を、長男と四男の跡目争いが起こって長男が負けた時に、「長男なんだからお前が本当の跡継ぎなんだから、オレが新しい本願寺を作っているやるよ」と言って、土地をお寺を与えて、長男の派閥を全員、本願寺から分離させた(これが今の東本願寺)。権力者でも恐れた本願寺は、全国の本願寺の系列のお寺や信者も東日本と西日本に分裂させられて、お互いに「どちらが正しいか」とばかり争うようになり、一気に力を失った。そして、それでもまだお寺全体の力を恐れた家康は、「本末制度(ほんまつせいど)」を作って、全国のお寺を必ずどこかの宗派に入れて、そのお寺を宗派の本山が管理をして、その本山を家康が管理をするという仕組みを作った。そして、檀家制度を作って、お寺を骨抜きにした。

 

3、檀家制度とは何か

 

檀家(だんか)とは、「壇越(だんおつ)の家」という意味で、壇越とは、インドの「ダーナパティ」という言葉を中国で漢字の当て字にしたもので、意味は「お寺やお坊さんを支えて守る人」という意味。だから檀家とは、「家族でお寺を支える人たち」という意味。鎌倉時代から檀家という言葉が使われていたのだが、今の檀家制度は江戸時代に徳川家康が作った。正確には徳川家康が死んでからその後の徳川家の人たちが檀家制度を作っていったのだが、家康の「お寺を弱らせる」という考えを受け継いで、檀家制度を完成させた。

 

・すべての人を強制的に檀家にした

 

「キリスト教を禁止する」という理由で、すべての日本人は、自分の住んでいる近くのお寺の檀家に強制的にさせられました。仏教以外を選ぶ自由も、遠くのお寺を選ぶ自由も、お寺を変わる自由もありません。生まれたら、必ず近くのお寺の檀家にさせられました。お寺の「現在帳(げんざいちょう)」に必ず名前を載せられて、また新しく生まれたら新しく追加して、死んだら現在帳の名前を消して、過去帳に移しました。今の過去帳はその名残です。そのお寺の現在帳を江戸幕府は毎年点検をして、「この地区は何人済んでいるのか」と調べました。この頃のお寺は、市役所の役割もしていました。

 

・檀家の証明書をもらわないと普段の生活ができなかった

 

お寺の住職から「この人はうちのお寺の檀家ですよ」という証明書をもらわないと、「あいつはキリスト教だ」と言われて、普段の生活ができなかった。檀家さんは、住職にキラわれると生活ができなくなった。檀家制度とは、悪い言い方だが、「信者を奴隷にして支配する制度」だ。お寺の新築も、改築も、寄付も、本山への上納金も、すべて檀家はお寺の言われるままに払わなければならなかった。お寺の行事はすべて檀家は強制参加だった。お金を払わなかったり、行事に来なかったり、ちょっとでもお寺に文句を言うと、住職は「この人は檀家で無くなりました」と言うので、そうなると普段の生活ができないので、檀家はただじっとガマンするだけだった。

 

・お寺の競争を禁止した

 

お寺の競争を禁止したので、他の地区から檀家を引っ張ることもできないが、檀家を引っ張られることも無いので、お寺は経済的に安定して、何の努力をしなくてもお寺を維持運営できるようになった。檀家は一言でも住職に文句を言うと普段の生活ができなくなるので、お寺のやりたい放題だった。そして、お寺は檀家から心から憎まれ、キラわれるようになった。だから明治時代になって檀家制度が無くなったら、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と呼ばれる、信者がお寺を壊す行動につながった。権力者がみんな恐れて、信長や秀吉や家康さえも悩ませたお寺は、自分から信者にキラわれることによって何の影響も与えない存在になった。こうして徳川家康の考えを受け継いだ檀家制度によって、日本のお寺は骨抜きにされて、これが今の「仏教だけしかできない人たち」という現在のお寺につながっている。

 

 

5、檀家制度の悪い影響

 

この「信者を支配する」という檀家制度を、水で100倍くらいに薄めたのが今の檀家制度だが、もともとが最悪だったので今でも悪い部分が残っている。

「お坊さんは自分が間違っていても絶対に檀家さんに謝らない」

「お坊さんは、自分を尊敬するのが檀家の役目だと思っている」

「お寺やお坊さんを批判することは許されない」

という檀家さんなら今でも誰もが思うおかしいと思う部分は、昔の檀家制度の悪い部分が残ったものです。そして今の檀家制度の最大の問題は、檀家さんまで悪い影響を受けているということです。

「仏教さえも学ばずに、長く檀家を続けていることだけが取り柄で、他の檀家さんを見下していて、お釈迦さまよりもエラくなる」

というのは、まるで江戸時代のお坊さんの姿です。だからどこのお寺でも「自分が世の中の頂点だ。お釈迦さまよりもエライ」とイバっている檀家さんがいます。また、檀家制度というのはどんどん内側にこもっていくので、自然にダメになっていきます。最初の成り立ちがお寺を弱らせるために作ったので、檀家制度はとても恐ろしい部分があります。だから、弘宣寺の檀家さんには、その恐ろしい部分をわかった上で、檀家をやってほしいと思います。


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