「ブッダの言葉」

2023年(令和5年)923() 午前11時 会場:弘宣寺 本堂

弘宣寺 住職 八村弘昭(やつむら ひろあき)

 

「戦場において100万人に勝ったとしても、ただ1つの自分自身に勝つことのできる者こそが、最高の勝者である」

 

 ブッダ(お釈迦さま)は、苦悩に満ちた世界の中にありながらも心を平安に保ち、安穏な人生を歩んでいくにはどうしたらいいかと考え、その根本は自分の心にあるという答えにたどり着きます。そして、心の中のさまざまな悪い要素を断ち切ることこそ、真の幸福を手に入れる唯一の道であり、その道を行く者が最高の勝者なのだと言います。この世の苦しみを消すには、自分の心のあり方、ものの見方を変えるしかありません。

 

 

「他者の目的がどれほど大きなものであったとしても、自己の目的を見失ってはならない。自己の目的をしっかり理解して、自分の目指すところに邁進(まいしん)せよ」

 

 何よりも自己の修練を重要視するブッダの教えでは、自己こそがあらゆる苦悩の源泉であり、同時にその苦悩を消すための土台でもあります。自己中心の世界観からいかに脱するか。この難題を解決するには、常に自己を観察し続けねばなりません。他者のあり方にばかり気をつかっていると、自己観察の目が曇ってきます。真に意味のあることを成し遂げるためには、頑固なまでに自己の目的を追求することが必要です。他者との優劣は、副次的な結果です。

 

 

「他人の間違いに目を向けるな。他人がしたこと、しなかったことに目を向けるな。ただ、自分がやったこと、やらなかったことだけを見つめよ」

 

 ブッダの教えは、外部の神秘力に頼ることなく、自分の力で道を切り拓(ひら)くという、自己鍛錬・自己実現を目指しています。すべてが自己の内部で完結するのであるから、他人と比較することには意味がありません。むしろ他人との比較は、心を意味もなく動揺させるという点で害になります。他人を気にせず、自分の行動をしっかり見極め、それを基点として自分を高めていくことが大事なのです。

 

 

「他人の過失はすぐ目につくが、自分の過失は見えにくい。人は、他人の過失を、まるで籾殻(もみがら)のように吹き飛ばすが、自分の過失は覆い隠してしまう」

 

 人のあら探しに夢中になって、それを見つけては怒り、また一層あら探しに奔走(ほんそう)します。そのくせ自分の過ちは丸ごと覆い隠して見ようともしません。このような暮らしをしていて、心の安穏など実現できるはずがありません。

 

 

「自分を救えるのは、自分自身である。他の誰が救ってくれようか。自分を正しく制御して初めて、人は得難い救済者を手に入れるのだ」

 

 当時のインド社会は、バラモン教の教えが支配的でした。この世は超越的な存在のうえに成り立ち、自己が幸せになるには、超越的な存在との一体化を目指せというバラモン教の考えをブッダは否定し、自分だけを拠(よ)り所にせよとしました。外部に拠り所を求めず苦しみを解決するためには、苦悩のメカニズムを理解し、実践により自分を変えなければなりません。そのための修行なのです。

 

 

「学ぶことの少ない者は、牛のように老いていく。肉ばかり増えて、智慧は増えない」

 

 ヒマラヤ山脈の近くにあったカピラヴァットゥという国の王子として生まれたブッダは、29歳のときに家も地位も捨て出家します。そのきっかけとなったのは、ある日、遠出をした馬車の中から、道端を歩くよぼよぼの老人を見て自分も同じように老いることを知った時の衝撃でした。誰もが避けることができない老いという運命とどう向き合うか。真剣に考えようとしない愚者をブッダは痛烈な言葉で表現しました。

 

 

「善からぬことや、自分のためにならないことを行うのは簡単である。一方、善いことやためになることをするのは本当に難しい」

 

 人はとかく、自分に都合のよい状況を真実だと思いやすいです。また、安易な道を正しい道だと考えたがります。だが結果的に自分のためにはかえって害となります。ブッダでさえも、厳しい苦行を6年間にわたって行いましたが、間違いであることに気づきすぐにやめ、菩提樹の下で精神を集中させ瞑想に励み、あるべき自分の姿を見つめて悟りをひらきました。ブッダをしてもこのように己のためになること=善いことを為すのは難しいのです。

 

 

「愚かな者が、自分を愚かであると自覚するなら、彼はそのことによって賢者となる。愚かな者が自分を賢いと考えるなら、そういう者こそが愚か者と言われる」

 

 ブッダは煩悩の親玉である「無明(むみょう)=愚かさ」こそが苦しみの根源だと考えました。愚かさとは単に知識や学がないといった表層的なものではなく、ものごとを正しく、客観的に考える力が欠如しているという、本質的な不合理性のことです。自分の愚かさに気づいた人が賢者となるというのは、古代ギリシャの哲学者ソクラテスの「無知の知」と通じます。自己の愚かさを自覚することから、真の自己を知る道は始まるのです。

 

 

「まずは初めに自分自身を正しく整えよ。その後で、他者を教えさとせ。そうすれば賢者は、汚れに染まることがない」

 

 しばしば仏教は利他主義だと言われますが、まずもって肝心なのは自己救済です。自分の行動をよく制御し、自己鍛錬に努める。すべてはそこからしか始まりません。しかし、利己主義で突き進めというのではありません。その修行の結果、得られた貴重な体験を今度は同じ道を歩む同輩・後輩たちに懇切に説き示す。自己努力し、結果を後進に伝達する。ここにはブッダがきわめてすぐれた教育者であったことを示す一面が表れています。

 

 

「ためになることをいくらたくさん語っていても、それを実践しなければ怠け者である。そういう者は修行者とは言えない」

 

 修行とは、この世のあり方を正しく観察する智慧を身につけ、自分自身を最良の状態へと向上させていくことです。修行のためのノウハウをいくら知っていても、自分で実践しなければ何の意味もありません。

 

 

「人は生まれたとき、口の中に斧(おの)が現れてくる。愚か者は、悪しき言葉を口にして、その斧で自分自身を切り裂くのである」

 

 みずからの言葉がみずからを苦しめることを説いた教えです。言葉は使い方1つで自分のまわりの環境を善くもすれば、悪くもします。嘘をつかない、関係を引き裂くような言葉を使わない、悪口を言わない、飾り立てた調子のよいお世辞を使わない、という4種の語り方を心がけるべきです。

 

 

「自分を苦しめず、他者を傷つけることもない、そんな言葉だけを語れ。それこそが『正しく語られた言葉』というものである」

 

 人は自分の欲望に固執すると、しばしば他者を傷つけてまでそれを達成しようとします。しかもその欲望は決して尽きることがありません。満たされることのない欲望の連鎖はまさしく、苦悩の源泉です。また、傷つけられた相手はいつまでもそれを忘れず、恨みと憎しみにとらわれ、争いを引き起こします。言葉は恐ろしい凶器です。このような欲望の連鎖、怒りや恨みの連鎖を引き起こさない言葉こそが、「正しく語られた言葉」です。

 

 

「自分自身を島とし、自分自身を拠り所として生きよ。それ以外のものを拠り所にしてはならない。ブッダの教えを島とし、ブッダの教えを拠り所として生きよ。それ以外のものを拠り所にしてはならない」

 

 80歳を迎えたブッダは、弟子のアーナンダを連れて最後の旅に出た折に大病を患い、みずからの死期を悟り、自分がいなくなった後の心構えを語りました。自分自身の努力と、ブッダの教えの2つだけを拠り所として生きてゆけと言います。仏教という宗教が祈ったり願ったりするのではなく、自らの力で向上していくのを目指すことが明確に示されています。

 

 

「ものごとは心に導かれ、心に仕(つか)え、心によって作り出される。もし人が、清らかな心で話し、行動するなら、その人には楽が付き従う。あたかも身体から離れることのない影のように」

 

 私たちが感じる苦しみの多くは、自分の心の中の劣悪さが原因になっています。苦しみを安楽に変える唯一の道は、自分の心を清らかにすることだと、ブッダは宣言しています。

 

 

「心は、とらえ難く、軽薄で、わがまま放題である。その心を制御することは善いことだ。制御された心は、安楽をもたらす。心は見通すことがとても難しく、極めて微妙で、わがまま放題である。賢い人は心を防御しなければならない。防御された心は、安楽をもたらす」

 

 ブッダの教えによれば、この世の苦しみの原因は自分の心です。心は、外界から流入する刺激や情報に翻弄されて、あちこちにフラフラとさまよい歩き、その結果として煩悩が生まれ、それが私たちに苦しみを与えます。したがって、心の中にある煩悩を完全に断ち切り、心を守ることで、真の安楽へと至ることができます。これこそが、私たちが間違いのない幸福を手に入れるための唯一の道です。

 

 

「人は他者を欺いてはならない。どんなところであれ、誰に対してであれ、軽蔑の気持ちを起こしてはならない。憎しみや敵意から、相手が苦しむことを願ったりしてはならない」

 

 他者を欺き、軽んじるならば、それが原因となって多くの苦悩や怒り恨みが生み出されます。苦悩の多くはみずからの行為が生み出すものであり、みずからの心の内にはびこります。これを抑止できるのは、あくまでもみずからの心がけだけです。

 

 

「母が、自分のたった一人の息子を命懸けで守るように、人はあらゆる生き物に対する無量の慈しみの心を鍛錬していかねばならない」

 

 ブッダが説く慈悲とは、母親が子どもにかけるのと同じ愛情をもって、あらゆる生き物に対して接することであります。母の愛情こそ、もっとも理想的な情愛のあり方なのです。慈愛の心はなにも特別な修練を必要とするものではありません。あくまでも人々の生活の中で生かされ、心がけるべき教えです。

 

 

「心によってあらゆる方向を探し求めても、自分より愛しい者はどこにも見つからなかった。他の人たちにしても同じである。みなそれぞれに自分が愛しいのだ。だからこそ、自己を愛する人は、他者を害してはならない」

 

 自分を大切に思う気持ちが、そのまま他者への思いやりになります。もし人が自己をきちんと見定め大切にすることができるなら、同じ気持ちが他者に対しても生じます。

 

 

「愚かな人は『私には息子がいる』『私には財産がある』などと言ってそれで思い悩むが、自分自身がそもそも自分のものではない。ましてやどうして、息子が自分のものであろうか。財産が自分のものであったりしようか」

 

 子を持つ親はみな、我が子は自分の一部だという気持ちがありますが、その情愛が増幅されると執着になってしまいます。そこから、子の人生を自分の思い通りにしたいという欲求も生まれ、思い通りにいかないと苦しくなります。子や財産に執着することで、苦悩の連鎖がどんどん膨らんでいきます。ブッダは、子や財産どころか自分自身さえも自分の所有物ではないといいます。いくら自分というものに執着しても、しょせんそれは錯覚にすぎません。

 

 

 

以下の本を参考にしました。

 

・「ブッダ100の言葉」(佐々木閑訳監修。宝島社。1100円)




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